六条河原院(現在の渉成園辺り)は、平安時代初期の左大臣源融が造営した広い庭園をもつ邸宅で、庭には鴨川の水を引き入れ、陸前の松島や塩竃の風景を模して庭作り、大きな池があった。 融は、池畔で塩を焼き、煙の風情を楽しむため、毎月、難波から海水を運ばせていたという。現在も河原町五条南西部に塩竈町の地名が残っている。六条河原院は融から、子の昇に譲られ、さらに宇多法皇に寄進された。法皇の死後に寺へと改められた。源融は、この他に嵯峨の山荘・棲霞観(せいかかん)や宇治に別業を造るなど豪奢な生活をしていたようで、光源氏のモデルともいわれている。嵯峨野にある清凉寺(通称嵯峨釈迦堂)は、融の山荘・棲霞観跡と伝えられ、境内には源融の墓といわれる石塔がある。また融の宇治の山荘跡は、のちに藤原道長に渡り「宇治殿」となり、その子・頼通が寺に改めたのが平等院の始まりである。歓喜寺は正安元年(1299)に善導寺を併せ歓喜光寺と改名したという。その後、歓喜光寺は天正年間(1573~92)、豊臣秀吉の都市改造で天満天神とともに錦小路東端の現在地に移転し、通り名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。しかし、明治時代の神仏分離令により歓喜光寺のみが東山五条を経て山科区大宅奥山田へ再移転している。現在、錦天満宮境内には源融を祀る末社塩竃社がある。この塩竃社は、“六条河原院”が寺とされたとき、源融を弔うため創祀られたもので、秀吉の都市改造で移転したときに天満天神と共に移された。
天神様 : 大宰府に左遷され、失意の中で亡くなった菅原道真。道真の死後に清涼殿落雷、天変地異、疫病が続き天皇家・藤原氏の周りでも死者が相次いだ。かくして道真の怨霊の仕業を鎮めようと、醍醐天皇は道真の左遷を取りやめて右大臣の詔を発した。しかし災害は止まず醍醐天皇も崩御。時の一条天皇は道真を神として祀った。それ以降道真は「天皇が認めた神:天神様」として信仰を集めるようになる。---御霊信仰 : 非業の死を遂げたものが人々に災いをもたらす その祟りを鎮める信仰