平安時代中期の女流歌人 和泉式部
父は、越前守大江雅致。母は、冷泉天皇皇后・昌子内親王に仕えた平保衡の娘。 杵島の福泉寺で生まれ、すぐ塩田郷の大黒丸夫婦に引きとって育てられる。和泉式部は幼少名をお許丸といい塩田郷で9歳まで過ごしましたが、小さい頃から評判の器量よしで又利口このうえもなく、成長につれて誰教わるともなく歌詠みをはじめ、その優れた天性に村人を感嘆させることしきりであった。
和泉式部の歌には当時もてはやされたテクニックはなかったようであるが、天性の、男をひきつける魅力はあった。 また、同姓からも好かれる魅力があった。 これはひょっとしたら、彼女のテクニックによるものか? 定かではないが、あの身持ちが硬い紫式部ですら、和泉式部に対して悪い感情は抱いていない。 なぜかわかるような気がします。
996年頃、和泉守橘道貞と結婚、小式部を産む。夫の官名により和泉式部と呼ばれる。また、父の名から江式部とも呼ばれた。 1000年頃から冷泉天皇皇子・為尊親王との恋愛が始まります。5歳年上の彼女との恋仲は許されることもなく、和泉式部は親に勘当されます。為尊親王の死後、弟宮の敦道親王と恋愛するが、2年後敦道親王は27歳で亡くなる。『和泉式部日記』はこの頃のことを書き記している。和泉式部に夢中になった敦道親王は、冷泉天皇の第4皇子で当時22歳。和泉式部より7歳年下であった。彼からの歌に対して、和泉式部は挑発するかのように、数多くの返歌をしています。夫の弟との熱い恋愛に、敦道親王のお后も出て行くほどで、世間の中傷を浴びることとなる。「永覚」という息子をもうけています。
また、その後も、数多くの男に、「あとどれだけ生きられるかわからないんだから、いま精一杯の気持ちで、あなたに会いたいわ・・・」 ってな歌を送り、恋愛をしています。♪♪
亡き人の来る夜と聞けど君もなし我が住む里や○なきの里
敦道親王との恋愛姿図(撮影:クロウ)
敦道親王の死後、藤原道長の娘・一条天皇中宮彰子に仕え、同じく彰子に仕える紫式部・伊勢大輔らと宮廷サロンを築いていった。 その中で、藤原道長の家司・藤原保昌と結婚する。1025年、娘である小式部が亡くなり、和泉式部は大変悲しんだ。 藤原保昌は、1036年摂津守在任中、79歳で死去。 和泉式部の生没年は未詳であるが、藤原保昌とともに全国を赴任し、これが各地に伝説を生むきっかけになります。しかし約10年で離縁しており、その後の消息は不明です。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
(生きてはいけないわ。死んでしまうだろうあの世への思い出に、もう一度あなたとの逢瀬をもちたいわ…。)