901年1月25日、政敵であった左大臣・藤原時平の策略で、醍醐天皇から右大臣・菅原道真に対し、太宰府に左遷する旨の詔勅が発せられた。 時平は先に藤原氏に繁栄をもたらした藤原基経の子で、荘園の整理や班田収受制の施行など律令制の維持に努めたが、39歳で死去し、厳格な政策が怨まれその早死には道真の祟りとされた。時に道真は56歳、今から約1100年前のことである。過酷な真冬の筑紫への旅を強いられることになった道真は2月1日に自宅を出立し、現在の京都・長岡京あたりから舟で淀川を下ったとされる。海船の乗換え拠点である渡辺津までは約30km・・・、そのまま一直線で淀川を下れば1日の行程であるが、途中各所で下船をし、その足跡を残している。また、大阪に着いてからも、河内・道明寺の伯母覚寿尼を訪ねる道すがら、あちこち数十箇所にも及んで足跡を留めている。真実の程はわかりませんが、大阪の地で何日も留まっていることから、太宰府行きの左遷に抵抗する道真の姿が垣間見えます。
菅原道真が旅の途中で立ち寄ったといわれる代表的な名所が大阪天満宮で、今日7月25日菅原道真の命日に行われる天神祭りは当宮創祀の翌々年始まったとされ、歴史と伝統を有し、『日本3大祭り』の一つである。901年菅原道真は、途中、河内の叔母に別れを告げられた後、川舟と海船の乗換え港であった難波の渡辺に寄り、筑紫へと旅立ったと伝わる。この由緒により、949年村上天皇の勅願により菅原道真を主神として奉祀、後に天神の森と称せられるようになった。以来千有余年、天満宮はこの地で、寸尺も位置を変更することなく現在に至っているとのことである。25日の本宮の夜は、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う船渡御が行われ、奉納花火があがる。また23日には天神橋商店街が主催するギャル神輿では日本一長い商店街は多くの人で賑わい、担ぎ手の中からミス天神橋は選ばれる。ところで、菅原道真が大阪近辺で立ち寄ったとされる場所は大坂天満宮以外には以下の場所がある。
長岡天満宮 : 長岡天満宮の地は、菅原道真が在原業平らと詩歌管弦を楽しんだゆかりの地で、901年道真が太宰府へ左遷された時、この地に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだと伝わり、別名「見返り天神」とも呼ばれている。
蹉だ神社 : 菅原道真が太宰府に左遷の途中、娘の苅谷姫は父を見送るためにこの地まで来たが、道真は既に出発した後で逢う事が出来ず、足ずり(さだ)して嘆き悲しんだので、この旧跡を「蹉だ山」と名づけられた。
佐太天神宮 : 沙汰当地は菅原道真の領地であったところで、赴任途中に当地でしばらく滞在したと伝えられている。 道真は、宇多法皇の計らいで、自分の無実が証明されるかもしれないと、一縷の望みを持ち、ここで都からの沙汰を待ったが、一向にその沙汰もなく、筑紫へ下向することとなった。
服部天神宮 : 秦氏が住居していたところで、この秦氏一族が崇拝していたのが「少彦名命」とのことで、当社の創建はこの時代まで遡ることになる。 菅原道真が旅の途中、この辺りで脚気に悩まされ、足が浮腫んで歩けなくなったとき、村人の勧めで、「少彦名命」を祀る服部の路傍の小祠に詣で、平癒を祈願したところ、持病の脚気が治り、無事に大宰府に着いたと伝えられる。 当地は大坂から池田、能勢、亀岡に通じる能勢街道の中間地点にあったことから、江戸時代の中期から末期にかけては、非常な賑わいを見せ、旅籠、料亭、茶店が軒を並べていたといわれる。
網敷天神社 : 822年嵯峨天皇が兎餓野に行幸したことに由来し、同天皇崩御後、その追悼のため左大臣源融(みなもとのとおる)が824年に現在地に社殿を創建し、嵯峨天皇の諱である神野(かみぬ)をとり「神野太神宮」と称した。 現名は、901年菅原道真が大宰府に左遷の際、この地に今は盛りと咲いていた紅梅に目を留め、これを観賞するため船の艫綱(ともづな)を円く円座状に敷いて休息したことに由来し、神社の名前を「網敷天神社」と称せられるようになった。
太融寺 : 821年嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子・河原左大臣源融(みなもとのとおる)がこの地に八町四面を画して七堂伽藍を建立したとのことである。 境内には淀君の墓がある。
四天王寺 : 約1400年前、聖徳太子が日本に渡来した仏教の採否をめぐって、物部守屋と争そった際、陣中で四天王に戦勝祈願を行い、勝利した。太子は誓いの通り、587年四天王
の像を安置し、日本最初の官寺を建立した。 現在も聖徳太子創建当時以来の「四天王寺様式」と呼ばれる伽藍配置が保たれている。 広大な境内には五十有余の堂塔伽藍があり、国宝、重要文化財を多数収蔵していることで有名である。
福島天満宮 : 道真赴任の途中、河内道明寺の叔母覚寿尼を訪ねた後、いよいよ瀬戸内海を船で下ることになり、当地で風待ちのために滞在した。その時、土地の人達が失意の道真一行を丁重に迎え、親切にもてなした。道真はこれに感謝して、御礼に布地に自分の姿を描いた絵を残し、傍らの梅の小枝を一枝折り、『行く水の中の小島の梅さかば さぞ川浪も 香に匂ふらむ』と詠み、梅の枝に添え、松の小枝と共に地面に突き刺した。不思議なことにこれが1本となって根を下ろし大木となり、元禄年間(1688~1704年)の頃まであったという。 903年(延喜3年)道真の訃報を風の便りに聞いた里人が、その徳を慕い、この梅松二枝が根を下ろした所に、小祠を設け画像を祀ったのに由来する。
北野天満宮 : 全国で菅原道真を祭神とする「天満宮(天神社)」は全国で12000社にものぼるといわれるが、北野天満宮はその宗祀である。 978年一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ、「北野天満宮」の神号を得た。1004年の一条天皇の行幸を初めとし、以降、天皇・上皇の行幸も度々あり奉幣祈願の絶ゆることはなかった。