斐伊川は出雲平野を貫通し宍道湖に抜けているが、太古には神門の水海を通って日本海へ抜けていた。その神門の水海は日本海に突き出た潟という天然の港であり、古代日本海の海運上、重要な意味を持つ。朝鮮半島南部の海岸地帯から舟を漕ぎ出し対馬海流に乗れば簡単に神門の水海にたどり着いたであろう。巨大な首長墓・西谷墳墓群の出現は神門の水海なくしてはありえなかっただろう。出雲の冬は北西の季節風が厚い雲を日本海から運ぶ季節である。この頃空と海の色は一変し、これを地元では「お忌み荒れ」という。そしてこの頃に、出雲大社最大の祭りで日本中の神が出雲に集まる神有祭が行われる。この神有祭は沖合から海蛇が到来しなければ始まらない。この海蛇、セグロウミヘビといって、黒潮にのって遥か南方海域からこの時期に必ずやってくるのである。出雲の人々は龍神の使いと信じて崇めている。
出雲大社の背後の山をかつては蛇山と言っていたが、それは出雲の人々が蛇に対する信仰の篤さを物語っている。また、周辺の日御碕などの多くが海蛇を龍神様といい、丁重に祀っていた。出雲と海蛇のつながりは中央にも知れ渡っていた。垂仁天皇の皇子・本牟智和気は出雲に出向き大神の宮を拝したことで言葉を発するようになった。この場面で本牟智和気は出雲の豪族の娘・肥長比売と結ばれるのであるが、その姿は蛇であった。驚いた本牟智和気は逃げ出すと、肥長比売は海原を照らして追ってきたから、本牟智和気は大和まで逃れたという。加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸の中に海亀の絵が描かれているものがある。それほど出雲と海のつながりは強く、出雲が海蛇を敬うのは出雲が海の国だからである。
加茂岩倉遺跡から出土した海亀が描かれた銅鐸
風土記の時代の出雲国には水海があったことがわかる
山陰地方の日本海側では近世に至るまで水葬が盛んに行われていたようである。しかし江戸時代に禁止された。事代主神が海に消えたという伝承も山陰地方の習俗に根差していたわけである。このように出雲が水・海と繋がっている意味は大きい。つまり西谷墳墓群はこの斐伊川と神門の水海に育まれた流通を支配する首長の墓だったことは間違いなさそうである。