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13帖 大奥静寛院宮和宮

2005年12月12日 | 池波正太郎 江戸時代

13帖 大奥 静寛院宮 和宮親子内親王 1846~1877年

 十四代将軍徳川家茂正室。 仁孝天皇第八皇女。異母兄は孝明天皇。六歳の時に有栖川宮熾人親王と婚約が決まっていたが、公武合体のため破棄され家茂へ降嫁することになった。 当時公家の子女の間では 「死にたければ東に嫁せ」 と言われるほど江戸は恐れられていて、はじめは強く拒んでいたが、孝明天皇は侍従の岩倉具視の意見を採りいれ輿入れを決めてしまう。

 武家と公家の習慣の違いで初め家茂養母の天璋院とは険悪なムードが流れていたが、その後和宮が踏み石の下置かれていた家茂の履き物をはだしで縁側に下りて上にあげたことから二人の諍いはなくなったという逸話がある。家茂とは仲むつまじかったというが、二人が一緒に過ごしたのは二年足らず。元々体が弱かった家茂は度重なる戦闘指揮に西上し、その疲労から脚気で戦病死した。二十一歳という若さだった。家茂没後は落飾して静寛院宮と号して次期将軍に一橋慶喜を立てた。 江戸城開城後いったん京都に帰ったが五年後江戸に戻る。家茂と同じく脚気にかかり三十二歳で没した。徳川家の墓地に埋めてほしいちいう遺言で増上寺の家茂の墓の隣に葬られた。1959年に行われた徳川家墓所の改葬で開かれた和宮の棺の遺体は正装した一人の男性の写真を抱いていたという。開棺後の処置が不十分だったため翌日には写真の人物像は消えてしまったため定かではないが、それは家茂だったと言われる。 (撮影:クロウ)

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