昭和10年代の日本陸軍・参謀本部はまさしく国策決定の中枢であった。参謀本部跡地には元帥・有栖川宮熾仁親王の銅像が陸軍の威厳を象徴するかのように建っていたが、現在では平和の群像に変わっている。参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官職である。主要任務は毎年の国防および用兵の計画を策定することであり、参謀の職にある陸軍将校の統轄と教育である。1937年7月の日中戦争勃発以来11月には宮中にも大本営が設置され日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は大本営陸軍部として海軍部と協力して、統帥権独立の名の下に中国大陸での戦争に勝つことにある。そのために議会の承認をへずに国税を湯水のごとく臨時軍事費として使うことが許された。昭和12年南京、翌年徐州、漢口、広東と次々と攻略し、日本軍は中国の奥へと進撃した。三宅坂上の参謀本部は常に頼もしく戦略戦術の総本山として民衆から眺められていた。重要な任にあたる参謀達がいずれも陸軍大学校出の秀才であることは変わりない。海軍もそうであるが、陸軍は秀才信仰というのがあった。日露戦争の国難を勝利に変えたのは陸大出の秀才のおかげであると組織をあげて信じたのである。特に参謀本部第一部第二課にはエリート中のエリートが終結した。花形は誰が何と言おうと作戦と戦争指導を掌握する第二課であり、そこは聖域であった。全ての根本の作戦は第二課で立案され、天皇の勅許を得て大元帥命令として発進された。
1939年3月の人事で第二課はいつの時代とは遜色ないくらいの面々が布陣した。陸大恩賜の軍刀の作戦課長・稲田正純大佐を筆頭に、12名中3名が軍刀組である。堀場一雄中佐、荒尾興功少佐、島村矩康少佐、そして第一部長橋本群中将も陸大恩賜である。他の参謀は秩父宮雍仁親王、有末次、谷川一男、櫛田正夫、武居清太郎、井本熊男である。彼らは長い伝統にもとづき一丸となった集団意識を至高と考え、閉鎖集団をいつしか形成し、外からの批判派全て無視した。外からのものを純粋性を乱すという理由で徹底的に排除した。つまりこの組織は近代主義とは無縁で、唯我独尊主義そのものなのである。我が決定こそが正道として邁進した。さて、そんな参謀本部の面々が戦後責任を取ることは一切なかった。作戦課長・稲田正純は、司馬遼太郎がノモンハン事件での取材において、あきれるほどの無責任な男と評価している。戦後40年間も軍人恩給を受け取り1986年89歳で没っしているのである。堀場一雄は1953年病没52歳、荒尾興功は1974年72歳で没。橋本群は1908年生まれで55歳で没。彼らの杜撰な作戦によってどれだけの戦死者が出たかについてはさんざん当ブログで紹介した。それらの杜撰な作戦は今だからこそ言えるというものではなく、当時から無謀・無計画と非難されながら実行に移されていることも多い。そんな作戦が何故実行されたのかは、前述したように彼らの決定こそ正道、唯我独尊主義そのものとしか言いようが無い。それだけに、エリート中のエリートでありながら作戦失敗に基づく戦後処理をすることなく、無責任な余生を送ったことが誠に残念であり、許せないのである。