江戸幕府によって公認された遊廓・吉原遊廓は浅草の名所である、最初は日本橋の近くにあったが、明暦の大火により、浅草寺裏の日本堤に移転された。多くの男性が浅草寺の雷門から仲見世通りを抜けて浅草寺の仁王門・本堂・護摩堂を立ち寄って北の新吉原へと繰り出したのである。遊郭は男が遊女と遊ぶところであるが、遊郭にいき、料金(揚代という)を支払ったからといってすぐに肌を合わせることはできない。最初は宴席を設けるだけなのである。そして二回目の指名をすることを「裏をかえす」というが、お客はそれでも肌を合わすことはできない。ほとんどの場合は口もきけずに揚代に加えてご祝儀を払うのである。そして3回目の宴席にしてやっと馴染みになれて話せるようになる。ところが、肌を合わせるには遊女に気に入られなければならない。つまり断られて、今までの揚代・祝儀が無駄になることもあるのである。また、馴染みになった客が吉原内で浮気をして他の遊女を指名することはできない。発覚すれば罰が待ち受けていたらしい。そこで、遊女もさるもの・・・男心を巧みに操っては多くの常客を獲得しようとし、客側も上手に遊ぶことによって、自分が「粋」であることを自慢するのである。かくして浅草寺仲見世を代表とする遊郭のまわりには多くの楊枝屋があったのである。当時、新吉原に指折りの遊郭 「海老屋」というのがあった。恐らく海老屋の常客となって通うことが江戸一番の粋な男性ということになったのであろう。
吉原の遊女は年季が明けると裏方に回るか出ていくしかない。その末路はどうなったかというと、私娼と云われる個人営業の遊女になっていく。それは様々な名前で呼ばれ商売の方法も多様であった。比丘尼というのは尼の姿をした遊女のことで、熊野の札を配りながら春を売っていた。比丘尼宿から街に繰り出して、声がかかると相手の家に行ったという。値段は100~200文というから3000円程度。綿摘というのは綿の実で綿製品を作る商売のこと。彼女たちは内職仕事の合間をぬって客をとった。提重とは重箱を持ち、呼ばれた家に行って身を売るというもの。夜になると現れるのは夜鷹と呼ばれて地面に筵を敷いて商売をする最下級の私娼である。そして夜鷹が通った夜間営業のに蕎麦屋を夜鷹蕎麦といった。夜鷹の料金は24文で今の500円程度、客を二人とると稼ぎは48文、当時のかけ蕎麦が16文だったというから、「客二つ つぶして夜鷹 三つ食い」という川柳がはやった。夜鷹の中には武士の妻もいたという。藩の取り潰しなどで浪人になる者も多く止む無くだったようである。夜鷹と並んで最下層の私娼には舟饅頭と云われる遊女もいた。料金はわずか32文で、停泊している船で饅頭を売ると称して男たちに声をかけていた。遊女の末路のすべてが不幸であったわけではなく、遊女を妻に受け入れる見受けという制度があった。元々遊女は自分の意思で遊女になったわけではなく、家庭の事情でなっらことを誰もが知っていたからであろう。
1859年幕府は横浜に外国人にも開かれた港崎遊郭を開設。これはアメリカ総領事ハリスが出した開港の条件のひとつであった。当時一番立派な建物が遊郭であったことから、この遊郭を外国人を迎える迎賓館として使用するとともに、遊女を接待役とした。港崎遊郭の中でも最も有名な妓楼「岩亀楼」が石灯篭として今も残っている。しかし攘夷論が叫ばれるなか、岩亀楼で人気の遊女・喜遊は、どうしても会いたいという外国人を拒み、自ら命を絶ったという。