華の御江戸の遊郭と花魁の話を昨日したので、今回のその続きです。 花魁とは江戸・吉原遊郭で最高の教育を受けた遊女をいう。 一方大坂・京都で最高位の遊女を 太夫と呼んだが、吉原遊郭でも当初は 太夫がいたという。 花魁は張り店を行わず、引手茶屋を通して呼び出す必要があり、呼び出された花魁は、禿や新造を従えて遊女屋へむかったのである。 これを後に花魁道中と呼んだ。 吉原の 太夫の筆頭といえば美浦屋の高尾太夫、代々襲名された名前で、中でも有名なのは二代目万治高尾太夫である。 伊達騒動で有名な伊達綱宗の意に従わなかったとして斬殺されたとの説がある。 また三代目は水戸家の水谷六兵衛に落籍した水谷高尾太夫、 四代目は浅野壱岐守に落籍した浅野高尾太夫である。 京都では島原の吉野太夫が十代まで続いたが、二代目以外はその詳細は不明である。 二代目吉野太夫の生まれは京都・方広寺の近くで松だ徳子という。 幼少の頃に禿として勤め、14歳で太夫となり圧倒的な存在感を放っていたという。 後陽成天皇の皇子を馴染み客とし、26歳の時に豪商・灰屋紹益と結婚した。 38歳で死去し京都・常照寺に墓所がある。
時代祭りでの吉野太夫とその墓がある常照寺
京都・清涼寺境内にある夕霧太夫の歌碑
次は京都・島原から大坂・新町廊にいた夕霧太夫である。 1678年に没した本名を照といった夕霧太夫の出身地は京都の嵯峨野といわれている。 島原では扇屋の 太夫となり、扇屋が新町に移転したために大坂にも太夫が誕生した。 22歳という若さで没したため大坂中がその死を悼んだ。 死後、夕霧とその愛人藤屋伊左衛門を主人公とする歌舞伎作品が近松門左衛門などにより作られた。 初代中村鴈治朗の末娘として生まれた女優・中村芳子さんは、昭和55年に京都島原の夕霧太夫を襲名し、約7年間太夫として艶やかに京の町を舞われましたが、惜しくも昭和62年にお亡くなりになりました。 ここに夕霧太夫を偲んでこの歌碑を建立いたしました。「井筒八つ橋本舗 津田佐兵衛」 ここ京都の清涼寺では毎年11月には夕霧供養祭が行われます。
京都・清涼寺境内にある夕霧の句碑
これまで紹介してきたのは遊女の中でも最高峰の遊女の話であり、囲うのに5000両以上必要であったといわれている場合である。 従って大豪商、大名、または皇族を相手にするケースがほとんどであった。 それに比べて金の持ち合わせの無い浪人などを相手にする遊女も数多くいた。 揚屋に所属することも無く、もちろん茶屋から声がかかることもない。 ござを商売道具にして夜中に人目を忍んで客引きをしていた遊女のことを江戸では「夜鷹」といった。 その料金の相場は十文で、ちょうど蕎麦の値段と同じくらいであったことから、夜蕎麦のことを夜鷹蕎麦というようになり、時代劇でも見張り役の岡っ引きが夜鷹蕎麦を食べるシーンを良く見かける。 ちなみに京都では辻君、大阪では惣嫁といったらしく、 京都の辻君などは、いかにも京都らしい感じがして最下級の遊女のこととは誰も見当がつかないように思える。
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