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家臣佐藤兄弟

2005年09月24日 | 平家物語
義経の四天王のうちの二人佐藤継信・佐藤忠信兄弟

「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれ、また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれた。義経はこの地で、15歳から21歳くらいまでの期間を過ごしている。

治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子継信と忠信が家臣に加えている。基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。
それ以来、旗宿のこの場所は「庄司戻し」と呼ばれている。継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。

兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。

弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。

二人の兄弟の奥方。
継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。
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