保元の乱で惨敗した上皇側
・藤原頼通は、喉を射抜かれ看護されるが、後に舌を噛み切って自害する。
・父・忠実は奈良興福寺・禅定院へと逃れるが後に捉えられ処刑される。
・源為義・息子は三井寺へいったん隠れるが、後に信西の命により処刑。
・清盛の叔父・忠正は命乞いするも、同じく信西の命により三条河原にて民衆にさらされ親子ともども斬首される。
・崇徳上皇は剃髪し、弟が門主の仁和寺へ逃れ出家し、讃岐に流され、
阿野高遠の手にあずけられ、侍女・佐の局など数少ない女房とともに山里にて心温かいお世話をされたそうです。
「思ひやれ 都はるかに沖つ波 たち隔てたる 心ぼそさを」
・その後崇徳の心労を察し、幾度となく都へ便りをだす女房であったが返事はなく・・・。
・しかしあるとき、横笛の音を耳にする。この果てまで、崇徳の御身を思い訪ねてきたものがいた。
・阿部麻鳥という都の御所にて水守をしていたお方である。女房はいわんや、崇徳はどえだけ感涙したか。
・交わす言葉もそこそこに、横笛の音にて阿部麻鳥は崇徳を慰めたという。
・そしてその後なくなられるまで、だれひとりとして訪問するものはいなかった。
保元の乱以降、無慈悲な信西入道による戦犯処理が行われた。
・これで約400年というもの、戦に負けた郎党が死刑に処せられることはなかった。極刑でも流罪であったのだ。
・源為義親子、平忠正親子の処刑に対して、民衆の勝者に対する風当たりは強かった。
・なかでも文覚の批判は強かった。遠藤盛遠と名乗っていた頃、源渡の新妻である袈裟御前の首を討った男である。
・しかし信西の前に一蹴されたのはいうまでもない。さらに、信西は平清盛の財力を後ろ盾にして、思うが侭のありさまであった。
そして、打倒信西の謀反を企てたのが二条天皇派であり後の平治の乱へと発展していくのである。
・保元の乱から3年の間に、後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令した。
・また、35箇条の新制を発布しているが、これらは、後白河の側近である信西が立案・推進したものだった。
・権威の確立に努めた後白河は、1158年に実子の二条天皇へ譲位し、自ら院政を開始した。
・二条天皇は若くして英君との評価が高く、少なくない貴族らが二条へ接近していき、宮廷は内部分裂の様相を呈した。
後白河院政を後見した信西は、清盛の武力をもって、院政の安定を図った。
・当時、後白河の乳母の甥に当たる藤原信頼が院近臣として台頭しつつあり、右近衛大将の官職を望んだが、信西は信頼の申し出を一蹴する。
・これにより、信西との対立を深めた信頼は、藤原経宗、惟方、成親、源師仲とともに、二条天皇派として結束していった。
・さらに、後白河院政へ不満を持つ源義朝を武力とし引き入れることに成功した。
1159年には、院の近臣である信西派・信頼派間の緊張関係が高まっていく。
・信西派の平清盛が熊野詣に出発した直後、藤原信頼・源義朝一派は二条天皇派の了解を得て、三条殿御所を襲撃
・して二条天皇、後白河上皇を確保する。
・この事態に信西は逃亡を図るが、ほどなく捕えられ殺害された。
・政権を掌握した信頼・義朝らは勝手に除目を行い、信頼は右近衛大将、義朝は播磨守になる。
・その最中、東国より兵を率いて参じた義朝の長男義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張
・したが、信頼は退け、清盛の帰洛を待つのである。
帰京して六波羅に入った清盛は降伏を装って経宗と惟方を調略し、後白河と二条を内裏から脱出
・させ、二条は六波羅に迎えられ、後白河は仁和寺に入った。
・そして、清盛に信頼・義朝追討の宣旨出されると、清盛の嫡男重盛、弟の頼盛、経盛は3000騎を率いて内裏へ向かい、
・源氏方2000騎との壮絶な戦いとなる。
・重盛が待賢門に迫ると怯えた信頼は逃げ出し、代わって義平が防戦に出て激闘になり、
御所の右近の桜、左近の橘での一騎打ちが源義平19歳、平重盛23歳の間で繰り広げられた。
義朝、義平が追撃して内裏を出ると、教盛の軍勢が陽明門に迫り、光保、光基は門の守りを放棄して寝返ってしまった。
両軍は六条河原で激戦を展開するが、疲労した源氏軍は遂に敗走し、戦いは平氏の勝利に終わるのである。
藤原顕季アキスエ1055-1123
┣藤原顕輔1090-1155
┃┗藤原清輔1104-1177(百人一首84番)⇔藤原俊成1114-1204
┗藤原長実1075-1133(白川法皇に近侍)
┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160
┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155
┣女朱内親王(高松院)1141-1176
┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘
堀河天皇┃ ┃
┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚
藤原苡子┃ ┃ 佐藤義清(後の西行)も護衛
┃ ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)
┃ ┣顕仁親王75崇徳天皇1119-1164 ┣-
┃ ┃ ┣重仁親王1140-1162 源渡
┃ ┃ ┃ 乳母:有子
┃ ┃ 藤原聖子1122~1181
┃ ┣後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)
┃ ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主
祇園女御 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘
後三条 ┣清盛 ┃ (祇園女御,白川に寵愛)
┣白河上皇72代1053-1129
藤原茂子┣
祇園女御・妹兵衛佐局 平完子(清盛六女)
┣清盛 1118-1181 ┃平信範娘
┃┗盛子1156-1179次女 ┃┣近衛家経1184-1238
┃藤原忠通1097-1164┣基通1160-1233養子
┃┣近衛基実1143-1166 ┣近衛家実1179-1242
┃┃ ┣基通1160-1233 源顕信娘
┃┃藤原忠隆娘
┃┃
┃┣近衛基房 1145-1231松殿(法華寺八講会 資盛との車争い)
┃┣九条兼実 1149-1207右大臣月輪殿「玉葉」の作者┣隆忠
┃┗九条兼房 1153-1217太政大臣 ┣師家
┃ ┣伊子(冬姫:義仲側室)
┃有子 池禅尼1104-1164(頼朝を助けた御方) 俊子
┃┣家盛1120-1149
┃┣頼盛1131-1186
┃┃ ┣仲盛?-?
┃┃ ┣光盛1172-1229
┃┃ ┣為盛 -1183
┃┃ ┣娘
┃┣忠重 大納言の局(待賢門院に仕え俊寛の兄妹)
┃┣忠度1144-1184タダノリ薩摩守(母:藤原為忠娘 一の谷で死亡)
┃┃ ┃ ┣- 教盛・娘
┃┃ ┣忠行 熊野別当湛快娘 藤原成親 ┣-
┃┃浜御前 ┣藤原成経-1202丹波少将
┃┃ ┗娘1155-
┃┃ ┣六代(高清)1173-1199
┃┃ 藤原親盛・娘 ┣姫(夜叉御前)
?-1121 ┃┃ ┣維盛コレモリ1157-1184(桜梅少将 那智で入水)
正盛 ┃┃ 高階基章娘┣資盛スケモリ1161-1185(建礼門院右京太夫恋人)
┣忠盛1096-1153 ┣小松重盛1138-1179小松左大将(病死)
┗忠正 ┃-1156 ┃ ┣清経1163-1183
┣長盛┃?-? ┃ ┣有盛1164-1185(鵯越丹波路より屋島へ敗走)
┣忠綱┃?-? ┃ ┣忠房 -1186(鵯越丹波路より屋島へ敗走)
┗正綱┃?-? ┃ ┣師盛1171-1184(一の谷で死亡)
┃ ┃ ┣娘
┃ ┃ ┃┣-
┃ ┃ ┃原田小卿種直(筑紫岩戸豪族)
┃ ┃藤原家成娘経子
┃ ┃(鳥羽院寵臣)
┃ ┣基盛1139-1162右衛門督
┃ ┃ ┗行盛-1185壇ノ浦で入水
┃ ┃ ┏娘 (平通盛室)
┣清盛 1118-1181 ┣清宗1170-1185(父と鎌倉からの帰りに義経により斬首)
┃ ┣冷泉局 ┣宗盛1147-1185中納言
┃厳島内侍迦葉┣知盛1152-1185四位少将
┃ ┃ ┣知章1169-1184(一の谷で死亡)⇔児玉党
┃ ┃ ┣知宗1184-1255
┃ ┃ ┣知忠1180-1196
┃ ┃ ┣中納言局(藤原範茂室)後堀河天皇に出仕
┃ ┃治部卿局1152-1231後高倉院に出仕
┃ ┣重衡1157-1185頭の中将(一の谷で捕虜)
┃ ┃ ┣-
┃ ┃輔子?-?(大納言典侍 建礼門院と大原へ)
┃ ┣清房?-1184(一の谷で死亡)淡路守
┃ ┣清貞?-1184(一の谷で死亡)尾張守
┃藤原家範娘 ┣徳子1155-1214建礼門院
┃ ┣平時子1126-1185┣安徳天皇1178-1185言仁親王
┃ ┣平時忠1127-1189┃ 藤原棟子1173-1238北白河院
┃ ┣平親宗1142-1199┃藤原殖子1157-1228(七条院)┣後堀河天皇1212-1234
┃平時信 ?-1149 ┃ ┣守貞親王1179-1223後高倉院
┃ ┣滋子1142-1176 ┃ ┣高成親王1180-1239後鳥羽天皇
┃藤原祐子? ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181
┃ 後白河天皇77代1127-1192
┃
┃平盛国1113-1186(清盛側近)
┃ ┗盛俊?-1184(一の谷で死亡)⇔猪俣小兵六
┃ ┣盛嗣?-1194越中次郎兵衛
┃ ┗盛綱?-?
┣経盛ツネモリ1125-1185 修理太夫参議 壇ノ浦で入水
┃ ┣経正 -1184丹波守皇后宮亮琵琶の名手(一の谷で死亡)
┃ ┣経俊1164-1184若狭守(一の谷で死亡)
┃ ┗敦盛1169-1184(一の谷で死亡)
┃ ┣-
┃ 右大弁時宗・娘 小宰相1165-1184(上西門院の女房)
┗教盛ノリモリ門脇殿1128-1185壇ノ浦で入水┣-
┣通盛1169-1184(越前三位)(鵯越で死亡)⇔木村源吾重章
┣教経1160-1185(能登守(一の谷で死))
┣教子?藤原範季妻
┣業盛1169-1184(一の谷で死亡)
┗仲快1162-1227(中納言律師)