ノモンハン事件は1939年5月から同年9月にかけて行われた日本軍とソ連軍の戦闘で、満州国とモンゴルの国境紛争である。1905年日露戦争が終わり1931年の満洲事変で関東軍が満州全土を占領し、1932年3月建国された満州国はソ連にとっては脅威となった。ソ連は、膨張する日本への防御壁を作ろうと目をつけたのがモンゴル人民共和国である。清王朝崩壊により1913年に独立したモンゴル人民共和国のソビエト化を進めたのがソ連の指導者スターリンである。共産主義に僧侶は反するということでスターリンはモンゴル首相ゲンデンに僧侶の粛清を求めるが、これを渋ったゲンデンは、スターリンにより銃殺された。しかし次のモンゴル指導者チョイバルサンはスターリンの指示通り僧侶を粛清、2万9千人もが粛清されたという。かくしてモンゴルは完全にスターリンの支配下となった。
一方、満州国を統治した関東軍は新京を首都として軍参謀部を置き、満州国とモンゴルとの国境争いに関する「満ソ国境紛争解決要綱 」という方針を決定する。つまり国境が確定していない地域は現場の指揮官が自主的に国境線を認定してよい、防衛上必要があれば、一時的にソ連領に侵入してもよい、というもの。
これを決定したのが辻政信1902-1961である
・幼年学校----陸軍士官学校----参謀本部
・関東軍
・石原莞爾に傾倒----統帥権無視
・ノモンハン事件@1939----第23師団壊滅
・参謀本部へ復帰
・参謀本部作戦班長@1942
・捕虜殺害多数
・ポートモレスビー攻略命令To第17軍----失敗
・太平洋戦争で強行作戦立案実行し
・多大な犠牲者を出した後は
・責任をとらずに海外逃亡した辻
・この要綱はソ連との紛争を避けたい日本本国政府の方針を完全に無視したもの
・要綱が出されてすぐの1939年5月11日にノモンハン事件に発展する
・戦犯逃れるために行方不明
・1950に戦犯容疑が解除されると現れる
・議員歴任
・1961東南アジアへ視察後失踪
・のである。両軍の戦力差は、日本軍2万2千、ソ連軍3万人で、火力差は日本とソ連が砲=6:10 戦車=1:3 装甲車=1:18である。かくして日本軍は一次敗退。しかしソ連の被害も大きく、スターリン傘下のジューコフ報告書では「司令部の無能・準備不足のため大きな損害が発生した」として現場指揮官は解任され、代わってジューコフが現場指揮官に就任し、ソ連本国に空軍力と戦車の増強を要請したのである。これら強化情報は日本軍も得ていたが、何ら対策を講じず実戦経験の乏しい第23師団を主軸に軍を展開するのである。つまり強硬派得意の歩兵主体戦闘である。奇襲作戦は数百台もの戦車で砕かれるのである。
この頃スターリンは大量の増援を送って一気決着を目論む。ヨーロッパで高まるナチスの脅威と日本との二正面作戦を恐れ、日本との短期決戦に出たのである。このときのソ連との戦力比は次である。兵=1:6 砲=1:7 戦車・装甲車=0:800 かくして1939年8月20日にソ連軍による総攻撃を開始され、日本軍は壊滅、8月28日には日本軍が全滅したことでソ連軍の勝利が確定するのである。9月1日正式にソ連戦勝が報じられた翌日にナチスドイツのポーランド侵攻が報じられた。つまり第二次世界大戦開戦である。さて、日ソの被害状況比較であるが、日本軍は戦死:8632名 負傷:9087名 全損:戦車8両 装甲車7両 航空機:損害157機、これに対してソ連軍は戦死:9703名 負傷:15952名 全損:戦車253両 装甲車144両 航空機:損害200~250機。特徴的なのは戦車・装甲車の被害数であり、ソ連の全損数が圧倒的に大きい。つまり歩兵突撃(戦車の下にもぐりこんで自爆する)によってソ連軍戦車を撃破したのである。これはまさに太平洋戦争で行われた特攻と同じである。