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源義経が兄・頼朝の勘気を解くため、文治元年(1185年)5月24日、腰越から大江広元に宛て、取りなしを依頼したと伝えられる書状。義経が真情を込めて頼朝に訴えた。「何故、逢ってくれないのだ」
「左衛門尉源義経、恐れながら申し上げ候。・・・・・・いたずらに数日を送る。・・・・骨肉同胞の義、すでに空しきに似たり。宿運、極まる所か、はたまた、先世の業因に依るか。亡父義朝殿御他界とともに、孤児となって母に抱かれ、以来、一日も安堵に住せず、諸国を流浪、辺土の土民百姓に服仕せらる。然りといえど、幸慶たちまち、平家追討の恩命に会い、義仲誅滅後、更に西海へ赴き、一命をかえりみず、甲冑を枕とするも、年来の宿望をとげんとするのほか他事ある無し。然りといえど、今や憂い深く、嘆き切なり。・・・・・因って義経、全く野心をさしはさまざるの旨、さきに熊野牛王宝印の裏を以て、起請文に書き進ずといえども、なお以て、御宥免なし。今は憑む所、他にあらず、ひとえに貴殿が広大の御慈悲を仰ぐのみ。便宜を伺い、高聞に達せしめ、誤りなき旨を恕せられ、芳免にあづからば、義経年来の愁眉をひらき、余慶家門に及ぼし、一期の安寧を得ん。愚詞、書きて尽さず、ただ賢察を垂れよ。恐惶謹言。源義経 元暦二年六月
進上 因幡前司殿」しかしながらこの「腰越状」は聞き入れられず、義経は追われる身となった。
現在腰越状をしたためた場所と伝えられる鎌倉腰越の満福寺には、弁慶が書いたとされる腰越状の下書きと称される文書が存在する。
毎年4月30日8時(義経自害の日)、衣川では腰越状の朗読が行われ、多くの人が集まる。