読谷村にいって欠かせないのがシムクガマと呼ばれる鍾乳洞。沖縄戦が始まると同時に多くの人達がここへ非難。読谷村HPの抜粋で記載していますが、ここは多くの住民が助かったことで知られる壕なのです。もしもアメリカ軍を説得する通訳がいなかったら、住民はそれまでの教えに従って手榴弾か青酸カリを選んで死ぬことになったでしょう。そんなことを思いながら、地元の人たちに場所を教えてもらって行ってきました。とにかく私が行こうとするところは、見つけにくい・・・。それもそのはず、このような壕はアメリカ軍に見つからないような場所を選んでいるのですから。
これ以上奥に進むのは根性がいります
「読谷村HPより抜粋」 シムクガマは波平又川原(マタガーバル)に洞口を開いた天然の鍾乳洞です。資料によると、「洞口はアガリシムクとイリシムクの二つあり、総延長2,570メートル」とあります。1945年(昭和20)3月、アメリカ軍の空襲は日を追って激しくなり、やがて艦砲射撃も始まるようになると、波平では約1千人の字民がこの洞窟に避難するようになりました。やがてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい砲爆撃の後、アメリカ軍は読谷山村の西海岸から怒濤(どとう)のような勢いで進撃してきて、戦車をともなったその一部は、シムクガマに迫って来ました。アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1千人前後の避難民の命が助かったということです。この事実に基づいて波平では、命を救った二人の先輩に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑を建立してあります。