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葛城氏再考・雄略没後

2012年09月18日 | 大和王朝期

 雄略天皇が没した後、葛城韓媛が生んだ白髪王子が大王の座に着き、清寧天皇として即位した。これにより葛城に繁栄の日々が巡ってくるのである。大連大伴室屋、大臣平群真鳥らが推したのであるが、後継の王子がなく治世も5年と短かった。しかし葛城出自の意義は大きく、後に父母ともに葛城系である億計・弘計王子が見出されることとなる。両王子の父である市辺押磐皇子が雄略に殺されたときに従者の日下部連使主・吾田彦親子に連れられて丹後国に逃れ、ついで播磨赤石郡にはいって縮見屯倉で仕えた。葛城系垂見宿禰が丹波王国と深くつながっていたことに理由がある。後に大和に戻った両王子は清寧天皇の死後即位問題が起こるが、その間同母姉の飯豊青王女が忍海角刺宮で政治をとっていたという伝承がある。忍海には5世紀後半に築造された石光山古墳群があり地光寺跡もある。 実態はつかみにくいが両王子は大王位についた。父・市辺押磐皇子の陵墓は滋賀県のケンサイ塚古墳とみられている。

 この頃大連大伴室屋が権勢を振るい、仁賢天皇と春日大郎女が生んだ小泊瀬王子を擁立して武烈天皇として即位させたのは平群真鳥である。また大伴室屋のあとを継いだ大伴金村は後に平群氏を倒し、物部氏・蘇我氏とともに継体天皇を擁立しようとしていた。葛城系の大王が清寧・飯豊・顕宗・仁賢と続いたが、かつての葛城の首長一族の復活をもたらしたわけではない。ひとつは蘇我首長の勢力拡充である。これは新沢千塚古墳や細川谷古墳群で理解できる。蘇我氏の葛城蚕食は蘇我稲目の宮廷における奮闘が契機になっている。というのは蘇我氏はすでに宣化天皇・大王高田王子と姻戚関係になっていた可能性があるからである。宣化天皇の次の欽明天皇の子に宗賀之倉王の名がみえる。母は日影王女(宣化天皇の娘)で、日影王女は欽明の妃・堅塩媛・小姉君とは母が別で、宗賀之倉王とよばれたのが母方の祖母の出自に由来するのならば、蘇我氏はすでに高田王子に一族の娘をいれていたと考えられる。さらに宣化・大王高田王子や安閑・大王勾王子の名も葛城の地名に由来する。勾は曽我の地のすぐ西隣であり、さらに西方の葛城川を越えたところが高田である。

飯豊青皇女は飯豊天皇として祀られている

 

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