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葛城氏再考・境黒彦皇子と眉輪王

2012年09月16日 | 大和王朝期

 幼武皇子は正妃の他に吉備稚媛を娶り身篭っている。また春日和珥の娘・童女君も妃となりすぐに身篭った。しかし葛城韓媛との話は膠着状態である。 大王や市辺押磐皇子側の葛城の勢力は大きく、韓媛との婚姻になかなか応じようとせず、葛城山に守りの要塞の建設を行い始めた頃、俄かに兄・境黒彦皇子が王位を狙い浮上してきた。王位継承権からいえば幼武皇子よりも優位である。幼武皇子は安康大王、葛城円と対抗すべく、警護隊長・大伴談の兄で大王の警護隊長を務める大伴室屋や、中立の立場を保っている平群真鳥を見方に引き寄せ、河内湖の交易権のほとんどを持っている物部目も見方にした。もちろん東漢つかを長とする渡来系氏族は片腕となっている。しかし大王が境黒彦皇子と手を組み韓媛を手中にして、幼武皇子討伐の詔を出せば、幼武皇子にとっては窮地である。

 幼武皇子はいまや政策に関しては昆伎王からかなりの教えを乞い、大草香皇子に仕えていた難波吉士日香香の子が生き残っているという情報を得て東漢に調べさせた。大草香皇子は葛城円や河内湖周辺の氏族と権利争いをし、葛城円はそれに乗じて大草香皇子を滅ぼしたのであるが、皇子が物部と組み、河内湖の開拓を行うことが気に入らなかった。難波吉士日香香は、大草香皇子に殉死し、その子・難波吉士日木先が物部の配下となっていたのを見方に引きいれ幼武皇子の舎人とした。目的は眉輪王を使って大王を暗殺することにある。つまり、難波吉士日香香は眉輪王の父・大草香皇子に使えていたが大草香皇子が穴穂皇子(今の安康天皇)に殺されたとき殉死した。

 その後、母・長田大郎女は安康天皇に娶られたが、自らの意思も働いたという。つまり眉輪王は母に捨てられたといってもよい。眉輪王は幼い頃からそういう環境の中で何も知らずに育ったが、間もなく事情を理解するようになると鬱病になり、今では気が狂ったような振る舞いをしている。難波吉士木先が身狭青から全てを知らされたとき、自ら眉輪王の舎人になることを志願したのである。つまり眉輪王の狂気を治し、眉輪王に父の仇を取らせることが自らの父の仇をとることにもなるというわけである。幼武皇子の正妃・若日下部命が眉輪王を憐れみ、大王の妃になった長田大郎女を憎んでいるのを知った難波吉士木先は、若日下部命までもが暗殺の後押しをしているようにも思えた。難波吉士木先は名を偽って、眉輪王の舎人となったが、間もなく眉輪王は気など狂ってはいないことを感じると、身を明らかにした。今まで悶死寸前の思いで暮らしてきた眉輪王にとって、木先の存在は大きくなった。いよいよ眉輪王は父の仇・大王を刺した後、幼武皇子の助けで父・大草香皇子の妃・日向髪長媛の出身の日向に逃げる日が近づいた。 これは幼武皇子の安康天皇暗殺計画でもある。日向行きの別れの挨拶で大王と顔を合わせた眉輪王が懐の刀子を抜き大王の胸を貫いたのは一瞬の出来事である。大伴談に護衛され箸墓の傍までいくと、日向ではなく葛城に眉輪王を逃がしたのである。

境黒彦皇子墓は奈良・御所市の南 近鉄吉野口駅近辺にあります

 

 

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