帥宮敦道親王(981年~1007年)
和泉式部の文才・美貌に惚れて、ひとめぼれをし、和泉式部を人生最後まで愛した御方です。 冷泉天皇と超子(とおこ)の三の宮・第4皇子となります。超子は、かの有名な藤原兼家のお嬢様・長女ですので、藤原道長のおばさんですね。
敦道親王は、兄に勝るとも劣らない美貌を持ち、加えて教養高く知的なムードの漂う貴公子でした。 帥宮との呼称は、太宰帥という官職から呼ばれたものです。 早くに母君を亡くされて、兄君ともども、祖父・藤原兼家さまにとてもかわいがられたようです。 漢詩、和歌によくたしなまれ、詩宴や歌会がお好きでした。漢詩の会で優れた作を詠まれ、四品から三品に叙せられたほどの腕前です。
物質的には何不自由ないはずの人生ですが、女運だけはとても悪かったようで御座います。 和泉式部に逢う前までは・・・。 最初の妻である藤原道隆女(中宮定子の妹君にあたります。)は精神にどこか異常があり・・・、度々の常識を越えた振る舞いで周囲を混乱させました。お姉さん・定子となんで、こうも違うのでしょう・・。 妻の恥ずかしい行いに、ましてや風流でプライドの高い帥宮さまは我慢できるわけありません。 2番目の妻・中の君(藤原済時女)は、兄君・三条天皇の皇后(女成子・せいし)の妹君です。ともに暮らしてみると、帥宮さま好みな雅を解さない冷たい女性で、気が合わず、愛情の薄い結婚生活になりました。敦道親王にとっては最悪だったと思いますね。 そこへ和泉式部が現れたのですから、ひとめぼれをするのも納得のきわみです。 彼女は和泉さまと入れ替わりに帥宮邸を出ていってしまいます。 その後の帥宮さまは、27歳で永い眠りにつかれるまで、和泉さまと仲睦まじくお暮らしになったのです。敦道親王が和泉式部を思って贈った歌に次があります。敦道親王の身分を考えれば、和泉式部の身分はかなり低かったわけですから、それを考えると二人の恋愛のたくましさが伺えます♪♪。すごいですね。
「われが名は 花盗人とたたばたて ただ一枝は 折りてかへらむ」
花盗人(他人の妻を奪うこと)と呼ばれても構うものか。この花一枝(和泉さまのこと)は私が手折っていく。