菅原道真845 - 903年
平安時代の学者、詩人、政治家である。特に漢詩に優れ、現在は学問の神として親しまれている。 宇多天皇867-931年に重用され右大臣にまで昇るが、左大臣藤原時平の時に、大宰府へ左遷され(57歳)、そこで2年後に失意の中で没しています。
道真は幼少より詩歌に才を見せ、862年18歳で文章生となった。 888年、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて、事件を収めます。 これまでは家の格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に、このとき有力な者がいないこともあり(藤原基経以降)、宇多天皇は道真を用いて、藤原氏を牽制した。
道真は自ら、遣唐使の廃止を決定し、895年には長女衍子を宇多天皇の女御とし、 897年には娘を宇多天皇の子斉世親王の妻としている。 宇多天皇が醍醐天皇に譲位後、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ特権を許します。 醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになり、また中下級貴族の中にもこれに同調するものがおり、 斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から政治の実権を奪ったとして誣告(ぶこく)され、罪を得て大宰権帥に左遷される。 宇多上皇はこれを聞き、醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、長男高視を初め、子供4人が流刑に処された。
道真が京の都を去る時の未練歌
「東風吹かばにほひをこせよ梅花 主なしとて春な忘れそ」
道真の死後、疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が相次いで病死すると、 さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出る。 これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に、子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられるようになる。 元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとし、道真が亡くなった太宰府にも太宰府天満宮が建立された。
平安末期から鎌倉時代には、怨霊として恐れられることは少くなり、天神様は慈悲の神、正直の神として信仰されるようになっていた。 江戸時代には、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになった。
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
手向山神社に立ち寄りました 紅葉があまりに鮮やかなので
幣(ぬさ)のかわりに一枝を神の御心に捧げ旅の安全を祈ります