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【民族大移動@ヨーロッパ-4】 ゲルマン民族の一部デーン人、バイキングの大移動(北欧方面)

2020年12月03日 | 世界史-欧米・ロシア

【ゲルマン民族の大移動方向】
  ┣4-6世紀 欧州方面移動(ゲルマン人)
  ┃ ┗地球寒冷化
  ┣8-12世紀 北欧方面移動(ノルマン人)
  ┃ ┗地球温暖化
  ┃  9世紀 スウエーデン系ノルマン人が東欧へ移動して建国:元々はスラブ人が居た
  ┃      ノブゴロド@ドニエプル川沿い → ルーシ族+スラブ=ロシア
  ┃      キエフ
  ┃      大都市コンスタンティノープルと交易開始
  ┃      
  ┣中東方面移動(イラン人)     
  インド方面移動(アーリア人)

 

【デーン人による欧州制覇】--- 8世紀~12世紀に活動

現在のデンマーク、スエーデンに移住した北方系のゲルマン人(ノルマン人)のことを言う。バイキング(入江(ヴィーク)に住む人の意)の時代にはイングランドに先住していたアングロサクソン人を圧倒して、西ヨーロッパに侵攻した。

793  ヴァイキングはイギリスのインディスファーン修道院を襲う

    ノルマン人はすべてキリスト教 : 国旗にはすべて十字架がある(スカンジナビア十字)

                    

                                ダンネブロ
                                 
世界最古

    デンマークのハーラル・ブロタン王?-986       ┓       
     ┃    ┣スヴェン王960-1014---スウエーデン王┣北海帝国@1016      
     ┃    クヌート王995-1035---イングランド王┛       
     ┃    
     ┣キリスト教に改宗@960
     ┣ノルウエーと無血統合
     Blue Toothの由来になった人物:無線統合--ロゴマークはハーラル・ブロタン
     

9 世紀 ヴァイキングとして西ヨーロッパ一帯に海賊活動を開始し7王国時代のイングランドに侵入、次々と国を滅ぼした。因みにアイスランドに最初に(874年)移住したバイキングはノルマン人のインゴールヴル・アルナルソンは、この地に定住して国をつくった。今のレイキャビックである(インゴールヴル・アルナルソンの像がある)。当時ここには絶対的な権力を持つ王はおらず、地域の代表者が合議制(アルシングという集会)で統治していたという。

878   ウエセックスのアルフレッド王はデーン人に勝利しブリテン島東部をデーン人の定住地として認めた。

911   ロロ846-933 バイキング、ギョーム2世1027-1087の7代祖先
     ┃┗ギョーム1世893-942の父
      
     ┃ ┗◇◇ギョーム2世1027-1087   
     ┃    ┃         
     ┃    ┣イングランド征服@1066:アングロサクソン滅亡         
     ┃    ┃ (ノルマン・コンクエスト:ヘイスティングの戦い)         
     ┃    ┃ この頃からヴァイキングをノルマン人と言う         
     ┃    ┗ウイリアム1世として即位---イギリス王室の開祖          
     ┃     
     ┣ 911年頃西フランク王国に侵攻移住 
     ┃ キリスト教への改宗を条件にフランス国王・シャルル3世879-929から領地(ノルマンディー公国)を貰い移住       
     ┗ シャルル3世の娘ジゼルと婚約          
 
    

1016年 デーン朝 : クヌート王990-1035(デンマーク人)はイングランド(エグバート770-839が統一)を征服

           エグバート:アングロサクソン人 エセックス王@802 Byカール大帝庇護 

1066年 ノルマン朝: 西フランクのギョーム2世がイングランドを征服 → 今の英の最初の王朝

           ヘイスティングの戦いでエセックス朝・ハロルド2世1022-1066に勝利(ノルマン・コンクエスト)

           ノルマンディー公ウイリアム1世1027-1087として即位

    フランスのルーアンにある大聖堂に眠っている。因みにこの物語はバイユータペストリー博物館に所蔵されている。

因みに12世紀頃にバイキングの歴史を書き記したものが「サーガ」というアイスランド初の歴史書(著者:アリソル・ギルッソン1067-1148)には最初のアルシングが930年に開催されたとある。有力者が法律をつくって争いを仲裁するなど、議会と裁判所の役割をしていた。その開催場所はレイキャビックから50km東のシンクベドリル、現在は国立公園となり、法律の岩がある。

【アメリカ大陸に最初にたどり着いたのはノルウエー系ヴァイキング:ノース人】

    フローキ・ビリガルズソン(?-?)     
860    ┣アイスランド発見      
      ┃ 配下のファクシが命名した湾→ファクサ湾    
      ┗ 渡りカラス道案内

    バイキング・赤毛のエイリーク(950-1003 ノルウエー国王の名もエイリーク)     
982    ┣
グリーンランド(レイキャビックから1000km)を発見:現在デンマーク領     
      ┃ 
極寒の地だからアイスランドと命名---人が寄り憑かなかった     
      ┣
グリーンランド発見の時には人を集めようとした     
      ┃ 
エイリークはグリーンランドを探索し入植可能な地、農業が可能な地・カッシアースックを発見     
      ┃ 
最盛期には3000人が暮らした。農業以外の収入源はセイウチの牙。     
      ┃ 
セイウチの牙による装飾品は10世紀頃から人気を集めるようになり、ヨーロッパとの交易を図った。    
      ┃ グリーンランドは50万年前は新緑の大地
      
      ┃ また日照時間が短く(極夜が二ヶ月もある)不眠症が多い→アルコール中毒が原因で自殺者が多い   
      ┃      
      ┣
エイリークの息子・レイフ-エリクソン970-1020は新大陸ビンランドを発見 By ヴィンランド・サンガ     
      ┃ 
アメリカ大陸のニューファンドランド島のこと     
      ┃ 葡萄の生息を見てワインの地---ヴィンランドと命名    
      ┃ 
ここにはバイキングの集落跡:ランス・オ・メドーが見つかっている     
      ┃ 
コロンブスが大陸を見つける400年以上も前の西暦1000年頃に150人ほどの集落で漁業を営んでいた     
      ┃ 1960年代---鍛冶、紡績など発掘調査で出土
     
      ┣
後にデンマークが1917年に全土を支配    
      ┃ 
現在88%は原住民・イヌイット    
      ┗ 

 

【デーン人による両シチリア制覇】

1130年 デーン人・ロベルト-イル-グイスガルド1015-1085
     ┣
イタリア・シチリア島遠征     
     ┃ 弟:ルッジェーロ1世1031-1101:シチリア伯

     ┃    ┗ルッジェーロ2世1095-1154
      
           両シチリア王国建国(シチリア+南イタリア)

 パレルモにあるモンレアーレ大聖堂には典型的なノルマン様式の柱がある。イスラムに侵攻されたシチリアはローマ教皇領。そこでローマ教皇はデーン人(バイキング)にイスラム撃退を依頼した。北欧諸国の国旗にはローマ教皇との繋がりが深かった証が、十字として読み取れる。 

モザイクタイルなどはアラブ様式、ビザンツからもたらされた技術。これはバイキングにとってあこがれだった。さらに西のコンスタンチノープル迄辿り着いた。聖母子像のあるモスクには、バイキングのルーン文字の後が残されているという。(北欧には多くのルーンストーンが発見されている)

【今も残る多くのシチリア貴族、宮殿】    海上交易の要所・シチリア島には多くの民族が訪れて「文明の十字路」とも言われる地域であり、多くの民族が覇権を争った地でもある。州都パレルモには世界有数のオペラ会場・マッシモ劇場(映画ゴッドファーザーの舞台となった)やヴァルグアルネーラ・ガンジ宮殿(ガンジ公爵家が維持する完全な形で残されている数少ない宮殿)がある。フランス国王ルイ15世はガンジ宮殿の魅力に取りつかれて、愛人の為にこれとそっくりな部屋をフランスの宮殿につくらせたという。16世紀のベネチアンガラスが残るダイニングルームでは音楽会が開かれ、豪華なサロンが開催された青の間には18世紀に流行した数々の絵画、扇子がある。華やかな舞踏会が行われたダンスホールは18世紀半ばに莫大な費用を投じてピエトロ王子により改装されたが、1960年に映画・山猫(イタリア・フランス合作のイタリア統一戦争のさなかのシチリア島を舞台とし、伊の堕落を描いたもので、アランドロンも出演)で舞踏会のシーンが撮影された。そして莫大な費用を投じて修復を行ったばかりという鏡の間、舞踏会の合間に休憩をする部屋として使われていたという。建設されたのは1750年。

中世に巨万の富を築いた貴族の多くが現在もシチリアには残っているのはブルボン・ナポリ継承法のおかげだという。1734年、初代ブルボン王朝カルロス3世によって制定され、女性も継承できるということから現在も一族が衰退せずに残っている。アッリアータ・ディ・ピエトラタッリャータ宮殿はパレルモでは最も古く、1476年建造。ここの住人はアッリアータ公爵とパイチーナ公爵夫人で、1476年にアッリアータ公爵が建てた後、18世紀にパイチーナ公爵がそれを購入、そして1976年にアッリアータ公爵家とパイチーナ公爵家が結婚して二人が住んでいる。窓は1800年代に流行したネオクラシック様式。天井はアラビア様式で木製彫刻のように見える絵を施している。

次はシチリアの中でも比較的新しい貴族・タスカ伯爵家、16世紀に建てられたタスカ伯爵邸は1840年にシチリア北部で農業を営む富豪・タスカがこの屋敷を持つ貴族の娘と結婚し屋敷を譲り受けた。床には19世紀後半につくられたベネチアンモザイクデザイン、壁のフレスコ画は18世紀末に流行っていただまし絵、スイートルームは一般人も宿泊可能で一泊70万円。音楽室にはヴェルディーやルービンシュタイン直筆の楽譜、タスカ家は多くの音楽家のパトロンにもなっていた証だといい、ワグナー1813-1883(独生まれの作曲家でシチリアを舞台にした名作オペラを残している)がタスカ・ダルメリータ伯爵夫人に贈った楽譜@1882/3/20が宝物らしい。そしてここタスカ家でワグナーはオペラ「パルジファル」第3幕を完成させている。当主タスカは標高1100mの場所で家畜を飼い農業を営んでいた。そして200年前から以降8代に渡ってワイン事業を行い今では600haに及ぶ畑を所有している。シチリアの中央レガレアーリは一族の出発点とも言えるワイナリーで、質の高いワイン作りを70年前から始め、世界的に評価を得ている。

オスロ博物館所蔵 バイキング船・オーセベルグ号

878 ウエセックスのアルフレッド王はデーン人に勝利しブリテン島東部をデーン人の定住地として認めた。

10世紀 デンマーク王ハーラル1世はデーン人を含めた国家を統一、現在のデンマークの祖を作った。

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