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浅草といえば池波正太郎

2010年06月28日 | 池波正太郎 江戸時代
 浅草といえば葛飾区柴又の帝釈天で産湯を使ったフーテンの寅さんなのでしょうが、私の場合は池波正太郎です。 鬼平犯科帖や剣客商売などの名作を残した池波正太郎先生は浅草で育ちました。 池波正太郎先生のことについては今後折りに触れて記載するとして、 その浅草で知られるのは浅草聖観音で有名な浅草寺である。  実はこの浅草寺、飛鳥の頃からこの地にあったというから驚きです。 てっきり家康が江戸の街づくりを行った頃に創建したのかと思っていたのですが、推古天皇治世の628年が起源というからその歴史は1400年にも及ぶのである。 浅草寺参拝といえば、江戸時代から雷門をくぐって仲見世を通り 仁王門をくぐって本堂、五重塔へと繰り出すのが普通のルートであるが、隅田川から二天門をくぐってすぐ本堂へ向かうルートがあるらしい。 戦争の消失から免れたこの二天門の二天とは増長天と持国天のことで、上野の寛永寺から譲り受けたという。 二天門をくぐるとすぐに浅草神社があって、本尊を発見して安置したという土師中知らが祀られている。 この土師中知らは三社権現として地元の人々から親しまれ、 年間3千万人の人が訪れるというから、すごい。 恐らく日本一参拝者が多い寺だといえるような気がする。 そして本尊は永代秘仏であり、寺の住職も見たことが無いらしい。 このように人々を魅了し、徳川将軍家の祈願所の顔をも持つ寺であるのに、ひとつ不思議なことがあって、ほとんどのひとが寺の宗派を知らないらしく、聖観音を祀っていることもあるのか、聖観音宗という初めて聞く宗派であるという。

浅草寺 雷門(松下幸之助寄進)から仲見世通りを抜けると境内には本堂がある

 
 
 浅草はどちらかといえば、浅草寺で象徴される明るいイメージを持つ庶民に人気の町であるが、一方では暗い影の一面も持つのである。 それは浅草弾左衛門(矢野弾左衛門)と呼ばれた闇の世界に君臨した棟梁で、関東全域を支配していた被差別の支配者である。  屋敷は浅草寺の北の浅草新町というところにあった。 遊郭街である新吉原の近くにある。  江戸時代、徳川幕府により定められた身分制度によって、というの身分に位置づけられた人たちが存在していた。 江戸幕府はこの浅草弾左衛門に関東の支配権を与えることによって、間接的にこの身分制度を確立していったのである。 実はは平安時代に始まり、江戸時代に確立された蔑称であり、 明治時代に入ってこの呼称は廃止されたが、根強い偏見はその後も残ってしまったのである。 弾左衛門は頭としてもうひとつの非差別民のもその支配下においた。 ここまでの話は五木寛之の「百寺巡礼」からの引用であるが、ここからは私の考えとなる。 という蔑視身分は江戸時代に確立されたのは、もともと江戸が穢土と呼ばれていたことによると考える。 徳川家康は羽柴秀吉の命により、この開拓しにくい関東の地を授かった。 1590年頃、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6ヶ国に移封された。 これは150万石から250万石への大幅な加増であったが、徳川にとっては縁の深い三河国を失い、北条氏の残党などによる不穏な動きがある苦難の移封でもあった。 しかも当時の関東は交通の便など、地形的にも極めて統治しにくい状況であったが、家康は秀吉の命令に従って関東に移り、江戸城を居城としたのである。 現在、渋谷・四谷・赤坂など谷や坂ばかりの不利な地形の名残が地名として残っているのは良く知られたことである。  前にも触れたが当時の江戸は穢土であり、家康の目指した京の都を造るには「穢土」という風土が邪魔となる。 そこで考えられたのは穢土の風土をという身分制度によって暗闇に隠し、華やかな江戸のみを表現することにあった。 別の機会に詳述するが、秀吉が築いた上野公園はまさに京都・清水の情緒ある風景を再現しようとした賜物なのである。     

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