浅草寺 雷門(松下幸之助寄進)から仲見世通りを抜けると境内には本堂がある
浅草はどちらかといえば、浅草寺で象徴される明るいイメージを持つ庶民に人気の町であるが、一方では暗い影の一面も持つのである。 それは浅草弾左衛門(矢野弾左衛門)と呼ばれた闇の世界に君臨した棟梁で、関東全域を支配していた被差別の支配者である。 屋敷は浅草寺の北の浅草新町というところにあった。 遊郭街である新吉原の近くにある。 江戸時代、徳川幕府により定められた身分制度によって、というの身分に位置づけられた人たちが存在していた。 江戸幕府はこの浅草弾左衛門に関東の支配権を与えることによって、間接的にこの身分制度を確立していったのである。 実はは平安時代に始まり、江戸時代に確立された蔑称であり、 明治時代に入ってこの呼称は廃止されたが、根強い偏見はその後も残ってしまったのである。 弾左衛門は頭としてもうひとつの非差別民のもその支配下においた。 ここまでの話は五木寛之の「百寺巡礼」からの引用であるが、ここからは私の考えとなる。 という蔑視身分は江戸時代に確立されたのは、もともと江戸が穢土と呼ばれていたことによると考える。 徳川家康は羽柴秀吉の命により、この開拓しにくい関東の地を授かった。 1590年頃、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6ヶ国に移封された。 これは150万石から250万石への大幅な加増であったが、徳川にとっては縁の深い三河国を失い、北条氏の残党などによる不穏な動きがある苦難の移封でもあった。 しかも当時の関東は交通の便など、地形的にも極めて統治しにくい状況であったが、家康は秀吉の命令に従って関東に移り、江戸城を居城としたのである。 現在、渋谷・四谷・赤坂など谷や坂ばかりの不利な地形の名残が地名として残っているのは良く知られたことである。 前にも触れたが当時の江戸は穢土であり、家康の目指した京の都を造るには「穢土」という風土が邪魔となる。 そこで考えられたのは穢土の風土をという身分制度によって暗闇に隠し、華やかな江戸のみを表現することにあった。 別の機会に詳述するが、秀吉が築いた上野公園はまさに京都・清水の情緒ある風景を再現しようとした賜物なのである。