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京都花街が350年続いた理由

2011年04月13日 | 池波正太郎 江戸時代

 京都女子大准教授・西尾久美子氏は経営学が専門であるが、京都の米穀商に育ったことから花街、舞妓さんには馴染みが深かった。 舞妓さんのまったりとした立ち振る舞いに魅せられて、花街の文化が350年のときを超えて、今もなお息づいている理由は何なのかという疑問に挑戦した。 ここでは江戸時代の政治から少しはなれて、花街のそもそものはじまりなどについて記載してみる。 舞妓さんという女性は舞踊でお客をもてなしたという意味では平安時代の白拍子に起源を求めることができるが、花街として現代にも通じる形式をもつようになったのは江戸時代のことであり、豊臣秀吉の正妻「ねね」に仕えていた歌舞の技能にすぐれた女性たちといわれている。 歌舞だけではなく、友禅などの技術力を背景に洗練されたいでたちに身を包んでいた。 そして花街は京都という日本文化の中心に立地していることで、なお一層磨きがかけられた。 現在京都には五軒の花街が賑わっているが、そのなかでも最古といわれるのが北野天満宮ちかくにある上七軒で、室町時代の10代将軍・足利義植のころに、北野天満宮が消失し、その修復作業で残った雑材を払い下げてもらって七軒のお茶屋を立てたのが上七軒の起源である。 その後豊臣秀吉が北野で大茶会を催した際に、このお茶屋が休憩所となり、その後に花街として発展していった。 次に最大の規模の祇園甲部とそれに隣接する祇園東は、八坂神社に参詣する人々にお茶をだした水茶屋が起源であり、歴史は16世紀に遡り、約100年の間に100軒を超える店が軒を並べた。 当初は祇園甲部と祇園乙部であったが後に祇園乙部は祇園東に改名された。 祇園にある八坂神社は「祇園さん」として地元の人々に愛され、京都の祇園祭はこの八坂神社の祭事で、この時期には舞妓さんたちは勝山というそのときだけ許される髪形を結い、奉納舞や花笠巡行などを行い、祇園祭と花街との密接なつながりを今でもなお伝えている。 

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