謀略家で知られる宇喜多直家であるが、その腕前はというとこの新聞記事に代表される。そして毛利家との結びつきによって備前での地位を固めた。ところが織田信長が毛利と敵対すると、すぐに中立の立場をとり、両方を牽制しながら結局は織田側に寝返ったが、すべては宇喜多家存続を守るための戦略である。先に次男・秀家を紹介したが、死後も秀吉に取り上げられて5大老にまで上り詰めたことを考えると直家の手腕に驚く限りである。
岡山城、それは南北朝時代(1346年 ~1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台に城を築いたのが最初と「備前軍記」に書かれ、その後戦国時代まで城主は明らかではない。戦国時代(1521-1528)には、金光氏支配し、1570年宇喜多直家が金光宗高に代わってこの地を支配した。宇喜多直家は備前守護代・浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張し、1573年居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)には、北方の山裾にあった西国街道が、城下に導かれ、備前福岡、西大寺などから商人を呼び寄せ、流通主導による経済振興政策がとられた。信長が安土城を築城する3年前のことである。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた。この下克上の連鎖は宇喜多直家が1559年に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まる。この二人は浦上宗景の重臣であったが、直家は酒に酔った信正を殺した上、援護に駆けつけた観阿弥も討ち取った。そして隣国備中で勢力を伸ばしていた三村家親も謀殺、その子元親をも1567年に破った。この時点では直家はまだ浦上宗景の家臣であったが、1569年に宗景に対して反旗を翻した。こうして備前・備中を支配すると美作まで勢力を伸ばすために城を岡山に移し、毛利輝元と同盟を結んでいる。これにより毛利輝元の助けを借りて三村元親を討ち、主君の浦上宗景をも打倒した。つまり下克上の裏側には主君と対立する立場の相手と同盟を結んで見方につけるというような戦略眼があるのである。
宇喜多興家-1536浦上氏家臣
┃中山信正1510-1559浦上氏家臣
┃ ┗娘
┃ ┣-
┗宇喜多直家1529-1582
┣三浦桃寿丸?-1584
┣容光院?-1591
┃ ┣
┃ 吉川広家1561-1625
┃吉川元春┛
┣宇喜多秀家1572-1655(八丈島に配流)
┃ ┣秀高1598-1641
┃ ┣秀継高1599-1657
┃ ┣娘
┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
┃豪姫1574-1634(前田利家の4女)
┣忠家1533-1609
┣春家?
円融院1549-?(三浦氏)