野菜作りに挑戦

雪消えと共に農作業開始。雪が降るまでの半年間の勝負です。

東北関東大震災

2011年03月16日 | 日記

昨日、妹と先月結婚したばかりの次男の嫁さんがいる仙台市に行ってきました。前日にカセットボンベ、カップヌードル、着替え、防寒具等をそろえ、又、妹の所はまだ電気が来ていないとの事で小さな発電機と予備のガソリン20リッターを持参し朝5時半に家を出ました。この時点では福島県南相馬市にある火力発電所に勤務している次男とはメールで無事を確認しているだけだった。108号線を南進、県境のトンネル内は真っ暗だったが、鳴子町に入ると電気は来ていた。岩出山、中新田を通り大衡村を経由し仙台市に向かう。途中、一部で道路の脇が陥没した場所があったが、道路には大きな損傷はなかった。又、家屋の倒壊なども無く、震度の大きかった割には被害が小さいように思えた。
被災地に向かう多くの自衛隊の車両とすれ違ったが、幹線道路の信号機は働いており順調に妹の所に到着した。妹の所では家財が倒れたりしたが家も壊れず無事な姿を見て安心した。救援物資を下ろし、太白区の避難所で避難者の救援にあたっている息子の嫁さんの所に行く。小学校の体育館が避難所になっており、そこには市民約20人近くが避難していた。
避難所には灯油が少なく、夜は冷え込み大変だと言っていた。息子夫婦は亘理町にあるアパートに住んでおり、嫁さんは電車で通勤しており、地震後は移動の手段が無く変える所が無くなり救護難民?になっていた様だが、昨日より友達の所に身を寄せているとの事であった。
皆で亘理のアパートに向かおうとしたが、交代の職員が来ず行く事が出来なかった。嫁さんの職場の机の下に救援物資を預け、一旦妹の所に帰る。途中ニュースで原発の事故で30km以内の人は屋内待機するように言っていた。(南相馬市鹿島区は25km)息子とようやく電話連絡が付き、早く避難するように伝える。午後2時頃になって会社から避難するように指示があり、寮に避難していた人達で新潟方面に避難する人は既に寮を出発、寮には仙台方面に避難する息子一人を置いて行ったとの事。息子には移動手段無し。他に仙台方面に避難する3名は発電所に火災警戒に行っており何時帰ってくるかわからないとの事。親としては焦ってしまった。地震発生時は発電所内の4階にある制御室におり、かろうじて助かったとの事。津波は3階まで到達し全てを押し流してしまったとの事。当日は飲み会があり車は亘理のアパートに置いて来たそうだ。その後、社員寮に避難していたが中々Mailも届かず心配しどうしだった。せっかく助かったにもかかわらず、何で皆と一緒に新潟方面に逃げなかったかと。息子としては皆と行動を一緒にしなければならないと思っていたようだ。16時頃に皆と合流、しかし中々出発しない。何があったが良く判らないが2時間後の18時頃にようやく寮を出発、仙台の妹の所に着いたのは21時半過ぎであった。息子を乗せてきてくれた人は盛岡市に向かうとの事だったが、ガソリンが少ないので分けて貰えないかと言う話だったので、感謝の気持ちと一緒に発々の予備ガソリンを車に入れてやってもらった。
親としては一難去って又一難と言った状態で、気の休まらないドキドキした一日であった。


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