昨年の朝日新聞12月18日付けの書評欄に、『僕のお父さんは東電の社員です』という本が取り上げられていた。その中で、東電社員を父親に持つ小学6年生が、東電批判に反論し、「原発を造るきっかけをつくったのは『みんな』ではないか、『みんな』には自分もあなたも含まれる、だから東電だけのせいにするのは無責任なのではないか」という意見を述べていることに対し、その本の著者(森達也氏)はその子供に対して「本当にごめんなさい」と謝り、いままで自分が原発について何も発言してこなかったことを反省している。このように責任を一般化する言い方はよくある。しかし、それには責任の所在をあいまいにしてしまうという大きな問題がある。なお、以下は、この書評だけを読んで書いたものであり、実際にその本を読んでいないので、著者の本来の意図を誤解している可能性がある。そうであれば、お詫びしたい。「ごめんなさい」
たしかに「みんな」は、今回の大事故が起きるまでその危険性を知らずに(知らされずに)、原子力発電所が各地につぎつぎと造られ、運転されるのを傍観してきた。自分たちが毎日使っている電力の一部は原子力発電所から供給されているなどということもあえて意識することはなかったと思う。だからと言って原子力発電所は「みんな」が造ったということになるのだろうか。つまり、「みんな」で造ったのだから、その結果が悪ければ、まず「みんな」の一員である自分が反省すべきだということになるが、本当にそうなのだろうか。
この国に、国民にとって重要な施策の決定、遂行の前には、関連する十分な情報を国民に与え、十分な国民的議論を尽くすという仕組みがあるならば、そう言っていいと思う。しかし、実際には、明示的に原子力発電の推進について、国民に問われたことはなかった。政府や電力会社は、原子力発電が「安全」であることをマス・メディアその他の手段で、多額の費用をかけて宣伝し、多額のお金をばらまいて建設地を確保し、つぎつぎと原子力発電所を造ってきた。その過程で、その危険を理解し、反対意見表明する人たちもあったが、その声は小さなものだった。推進派のように、りっぱな宣伝用施設を作ったり、マス・メディアで何度も繰り返し安全性をうたうコマーシャルを流したりするような資金を持っていないので、その意見を伝える手段は限られており、大きな声にはなりようがなかった。森達也氏は、いままで自分が原発について何も発言してこなかったことを反省しているが、仮に、彼が原発について発言してきたとして、今回の事故を防ぐことができたとは思えない。
いま必要なことは、二度とこのようなことが起きないようにすることだ。その手立ての1つとして、責任を明確にすることがある。今回の事故への関わり方には、当たり前のことだが、人によって深さが違う。その人の判断で結果が大きく左右されるという深い関わり方をしていた人から、日本人一般のように、その言動が結果にほとんど影響を与えない人までいる。森達也氏は後者に属すると思われる。事故が進行中で、原因究明も進んでいない段階で、そういう人たちを「みんな」という一括りにしてはならない。そんなときに、責任を一般化するような言い方をするのは問題の本質を覆い隠すことになってしまう。原子力発電を主導、推進してきた人たち、その判断、決定が大きな影響を与える人たちの責任はけっしてうやむやにしてはならない。重い責任を負うべき人たちが、今回、きちんとその責任を果たしていたのかをきちんと検証することが必要である。もし責任を果たしていなかったのだとすれば、その人たちを厳正に処分し、そういう人たちの影響力を排除した新たな責任体制を築く必要がある。同じ人たちが今後も同じ影響力を持ち続けるとすれば、また同じことが起きる。
特に東電は要注意だ。「原子力発電所から空中に飛び散った放射性物質はもはや『無主物』であり、東電の所有物ではない。したがって、その除去の責任は東電にはない。仮に所有権というものを想定できるとしても、その所有権は放射性物質が付着した土地の所有者にあると考えられる。したがって、それを除去できるのはその土地の所有者である」として、裁判所で除染の責任を回避する主張をしている。その無責任ぶりは徹底している。(朝日新聞のコラム『プロメテウスの罠』より)
同じく『プロメテウスの罠』に、東電の福島第1原子力発電所の燃焼管理班に12年間にわたって所属し、主任も務めていた技術者、木村氏(原発への疑問と、社の体質にも不信を感じ、10年前に辞めている)の話として、つぎのような事件があったことが記されている。
1991年10月30日、福島第一原発のタービン建屋で冷却用の海水が配管から大量に漏れた。そのとき、地下1階に水があふれ、非常用ディーゼル発電機が使えなくなった。木村氏は驚いて「津波が来たら一発で炉心溶融じゃないですか」と上司に聞いたところ、「そうなんだよ。でも安全審査で津波まで想定するのはタブー視されているんだ」という答えが返ってきた。津波を想定すると膨大なお金が要る、だから無視する、という意味。その上司というのは、福島に来る前は本店で原発の安全審査を担当していて、木村氏も尊敬できる人であったとのこと。「津波かぶったら水は流入しますよ。そんなことに気付かないはずはないし、つまり見て見ぬふりをしている。これはもう、原発だめじゃないかって思いましたね」というのが木村氏の感想。
結果として、津波対策費どころではない巨額の損害をこの国が負うかたちになってしまった。もちろん、避難を強制された人々にとってはお金の問題だけではない。その精神的負担も大変である。
ほかにもこんなことを言っている。
「(国に対して)虚偽報告をするんですよ。たとえば以前、制御棒が壊れることはたびたび起きていました。なのに、その報告は全然していません」「検査官が素人というか、何のノウハウもないんです。工学系の大学に行って、たまたまそのセクションにいるだけ。どうやって原発を動かすのかも全然知らない。素人を丸め込むなんて簡単じゃないですか」「定期検査中、制御棒は1本しか抜いてはいけないことになっています。(設置許可申請書に記載されている)しかし東電はすべての制御棒を引き抜いていました」この制限は誤って臨界事故に至らないようにするためである。同時に2本以上引きぬこうとするとインターロック(安全装置)が働いて抜けなくなる。東電は、全制御棒を引き抜くために模擬信号を送って安全装置を解除していた。(設置許可違反)作業を効率化し、検査による停止期間を短くし、停止による損失額を少なくするためである。国の検査官はそれを見抜けなかった。
その後、東電は安全装置解除の事実を認めたが「設置許可違反ではない」と言う。安全装置は「未臨界」を確保するためであり、それに代わる「同等の管理をすることで安全上の担保をした」から違反ではないとのこと。「同等の管理」とは、東電の保安規定にある「必要な制御棒が炉内に挿入されていることを確認すること」という規程を守っているということらしい。インターロックに関する規定は、その後に追加されたにもかかわらずである。では、いったい何のためにインターロックが造られ、その運用規定が設けられたのかまったくわからない。国の検査を担当する原子力安全・保安院の原子力発電検査課班長:今里某は、「設置許可通りのインターロックが造られていれば保安院としてOK」「運用は保安規定に定める」として、造られたインターロックが実際には保安規定に記載されている通り使われなくてもそれは運用の問題であり、設置許可違反には当たらないという意味のことを述べ、東電の言い分を追認している。ここには、責任逃れの典型的見本がある。もちろん、これが詭弁であることはだれにもわかる。言っている当人たちは詭弁だとはわかっていないかもしれない。わかっていて言っているのであれば国民を愚弄している。しかし、情けないけれど、これが通用するのがこの国である。
少し話はずれるが、震災後の重要な会議の議事録がまったく録られていなかったという問題も、責任逃れの最たるものではないか。未曾有の震災に気が動転していて、記録することを忘れていたなど、とても信用することはできない。優秀な官僚が大勢いるにもかかわらず、だれ一人として記録の必要性に気が付かないなどあり得ない。ボイスレコーダーの録音スイッチ一つ入れておけば、後で時間が取れるときにいくらでも文書化することができる。したがって、議事録を残さなかったのは故意にそうしたとしか考えられない。つまり、言質をとられ、後で責任を追求されないようにするためではないか。記録を残し、同じ過ちを繰り返さないために、何が問題だったのかを追求することより、後で自分たちが責任を追求されないようにすることのほうが優先されるというのが、この国の現状である。先ごろ、アメリカが震災直後のアメリカ側の議事録を公開している。内容は詳細にわたっており、3,000ページにおよぶものである。これを見て、関係者ははずかしいと感じないのだろうか。
東電の話に戻るが、この他にも、東電の意思決定をする人たちが、あのとき自らの国民に対する責任をきちんと理解していて、正しい決断をしていれば放射性物質の飛散を防げたはずだという調査結果も出てきている。(FUKUSHIMA PROJECT http://f-pj.org/ による調査、見解。『メルトダウンを防げなかった本当の理由──福島第一原子力発電所事故の核心』URLは下記)
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20111215/202630/
まず、東電の経営陣は、その個人的全財産を差し出して今回の事故の責任を取り、国民の前に謝罪をすべきではないか。株式会社は有限責任会社であり、法律的には、その出資額の範囲で責任を取ればよいなどと考えているとすればとんでもないことである。法的責任もあるが、道義的、社会的責任もあるということを忘れないでもらいたい。この事故でふるさとを追われ、不便な生活を強いられている人が大勢いて、職さえ失った人もいる中で、東電の経営陣は、その人たちよりずっとよい給料、手当を受け取ってきたのだから、資産もそれなりにあり、りっぱな家に住んで、心地よい生活をしているのではないか。大勢の被害者は苦しみ、加害者は優雅な生活をしている。それが社会的正義に反することは小学生にもわかるはずだ。
森達也氏は、「本当にごめんなさい」ではなく、「責任をとるべき人はきちんと責任をとらなければいけない。それが社会を成り立たせるための大切なルールなのだ」と、先の小学生に教えてやるべきなのだと思う。
たしかに「みんな」は、今回の大事故が起きるまでその危険性を知らずに(知らされずに)、原子力発電所が各地につぎつぎと造られ、運転されるのを傍観してきた。自分たちが毎日使っている電力の一部は原子力発電所から供給されているなどということもあえて意識することはなかったと思う。だからと言って原子力発電所は「みんな」が造ったということになるのだろうか。つまり、「みんな」で造ったのだから、その結果が悪ければ、まず「みんな」の一員である自分が反省すべきだということになるが、本当にそうなのだろうか。
この国に、国民にとって重要な施策の決定、遂行の前には、関連する十分な情報を国民に与え、十分な国民的議論を尽くすという仕組みがあるならば、そう言っていいと思う。しかし、実際には、明示的に原子力発電の推進について、国民に問われたことはなかった。政府や電力会社は、原子力発電が「安全」であることをマス・メディアその他の手段で、多額の費用をかけて宣伝し、多額のお金をばらまいて建設地を確保し、つぎつぎと原子力発電所を造ってきた。その過程で、その危険を理解し、反対意見表明する人たちもあったが、その声は小さなものだった。推進派のように、りっぱな宣伝用施設を作ったり、マス・メディアで何度も繰り返し安全性をうたうコマーシャルを流したりするような資金を持っていないので、その意見を伝える手段は限られており、大きな声にはなりようがなかった。森達也氏は、いままで自分が原発について何も発言してこなかったことを反省しているが、仮に、彼が原発について発言してきたとして、今回の事故を防ぐことができたとは思えない。
いま必要なことは、二度とこのようなことが起きないようにすることだ。その手立ての1つとして、責任を明確にすることがある。今回の事故への関わり方には、当たり前のことだが、人によって深さが違う。その人の判断で結果が大きく左右されるという深い関わり方をしていた人から、日本人一般のように、その言動が結果にほとんど影響を与えない人までいる。森達也氏は後者に属すると思われる。事故が進行中で、原因究明も進んでいない段階で、そういう人たちを「みんな」という一括りにしてはならない。そんなときに、責任を一般化するような言い方をするのは問題の本質を覆い隠すことになってしまう。原子力発電を主導、推進してきた人たち、その判断、決定が大きな影響を与える人たちの責任はけっしてうやむやにしてはならない。重い責任を負うべき人たちが、今回、きちんとその責任を果たしていたのかをきちんと検証することが必要である。もし責任を果たしていなかったのだとすれば、その人たちを厳正に処分し、そういう人たちの影響力を排除した新たな責任体制を築く必要がある。同じ人たちが今後も同じ影響力を持ち続けるとすれば、また同じことが起きる。
特に東電は要注意だ。「原子力発電所から空中に飛び散った放射性物質はもはや『無主物』であり、東電の所有物ではない。したがって、その除去の責任は東電にはない。仮に所有権というものを想定できるとしても、その所有権は放射性物質が付着した土地の所有者にあると考えられる。したがって、それを除去できるのはその土地の所有者である」として、裁判所で除染の責任を回避する主張をしている。その無責任ぶりは徹底している。(朝日新聞のコラム『プロメテウスの罠』より)
同じく『プロメテウスの罠』に、東電の福島第1原子力発電所の燃焼管理班に12年間にわたって所属し、主任も務めていた技術者、木村氏(原発への疑問と、社の体質にも不信を感じ、10年前に辞めている)の話として、つぎのような事件があったことが記されている。
1991年10月30日、福島第一原発のタービン建屋で冷却用の海水が配管から大量に漏れた。そのとき、地下1階に水があふれ、非常用ディーゼル発電機が使えなくなった。木村氏は驚いて「津波が来たら一発で炉心溶融じゃないですか」と上司に聞いたところ、「そうなんだよ。でも安全審査で津波まで想定するのはタブー視されているんだ」という答えが返ってきた。津波を想定すると膨大なお金が要る、だから無視する、という意味。その上司というのは、福島に来る前は本店で原発の安全審査を担当していて、木村氏も尊敬できる人であったとのこと。「津波かぶったら水は流入しますよ。そんなことに気付かないはずはないし、つまり見て見ぬふりをしている。これはもう、原発だめじゃないかって思いましたね」というのが木村氏の感想。
結果として、津波対策費どころではない巨額の損害をこの国が負うかたちになってしまった。もちろん、避難を強制された人々にとってはお金の問題だけではない。その精神的負担も大変である。
ほかにもこんなことを言っている。
「(国に対して)虚偽報告をするんですよ。たとえば以前、制御棒が壊れることはたびたび起きていました。なのに、その報告は全然していません」「検査官が素人というか、何のノウハウもないんです。工学系の大学に行って、たまたまそのセクションにいるだけ。どうやって原発を動かすのかも全然知らない。素人を丸め込むなんて簡単じゃないですか」「定期検査中、制御棒は1本しか抜いてはいけないことになっています。(設置許可申請書に記載されている)しかし東電はすべての制御棒を引き抜いていました」この制限は誤って臨界事故に至らないようにするためである。同時に2本以上引きぬこうとするとインターロック(安全装置)が働いて抜けなくなる。東電は、全制御棒を引き抜くために模擬信号を送って安全装置を解除していた。(設置許可違反)作業を効率化し、検査による停止期間を短くし、停止による損失額を少なくするためである。国の検査官はそれを見抜けなかった。
その後、東電は安全装置解除の事実を認めたが「設置許可違反ではない」と言う。安全装置は「未臨界」を確保するためであり、それに代わる「同等の管理をすることで安全上の担保をした」から違反ではないとのこと。「同等の管理」とは、東電の保安規定にある「必要な制御棒が炉内に挿入されていることを確認すること」という規程を守っているということらしい。インターロックに関する規定は、その後に追加されたにもかかわらずである。では、いったい何のためにインターロックが造られ、その運用規定が設けられたのかまったくわからない。国の検査を担当する原子力安全・保安院の原子力発電検査課班長:今里某は、「設置許可通りのインターロックが造られていれば保安院としてOK」「運用は保安規定に定める」として、造られたインターロックが実際には保安規定に記載されている通り使われなくてもそれは運用の問題であり、設置許可違反には当たらないという意味のことを述べ、東電の言い分を追認している。ここには、責任逃れの典型的見本がある。もちろん、これが詭弁であることはだれにもわかる。言っている当人たちは詭弁だとはわかっていないかもしれない。わかっていて言っているのであれば国民を愚弄している。しかし、情けないけれど、これが通用するのがこの国である。
少し話はずれるが、震災後の重要な会議の議事録がまったく録られていなかったという問題も、責任逃れの最たるものではないか。未曾有の震災に気が動転していて、記録することを忘れていたなど、とても信用することはできない。優秀な官僚が大勢いるにもかかわらず、だれ一人として記録の必要性に気が付かないなどあり得ない。ボイスレコーダーの録音スイッチ一つ入れておけば、後で時間が取れるときにいくらでも文書化することができる。したがって、議事録を残さなかったのは故意にそうしたとしか考えられない。つまり、言質をとられ、後で責任を追求されないようにするためではないか。記録を残し、同じ過ちを繰り返さないために、何が問題だったのかを追求することより、後で自分たちが責任を追求されないようにすることのほうが優先されるというのが、この国の現状である。先ごろ、アメリカが震災直後のアメリカ側の議事録を公開している。内容は詳細にわたっており、3,000ページにおよぶものである。これを見て、関係者ははずかしいと感じないのだろうか。
東電の話に戻るが、この他にも、東電の意思決定をする人たちが、あのとき自らの国民に対する責任をきちんと理解していて、正しい決断をしていれば放射性物質の飛散を防げたはずだという調査結果も出てきている。(FUKUSHIMA PROJECT http://f-pj.org/ による調査、見解。『メルトダウンを防げなかった本当の理由──福島第一原子力発電所事故の核心』URLは下記)
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20111215/202630/
まず、東電の経営陣は、その個人的全財産を差し出して今回の事故の責任を取り、国民の前に謝罪をすべきではないか。株式会社は有限責任会社であり、法律的には、その出資額の範囲で責任を取ればよいなどと考えているとすればとんでもないことである。法的責任もあるが、道義的、社会的責任もあるということを忘れないでもらいたい。この事故でふるさとを追われ、不便な生活を強いられている人が大勢いて、職さえ失った人もいる中で、東電の経営陣は、その人たちよりずっとよい給料、手当を受け取ってきたのだから、資産もそれなりにあり、りっぱな家に住んで、心地よい生活をしているのではないか。大勢の被害者は苦しみ、加害者は優雅な生活をしている。それが社会的正義に反することは小学生にもわかるはずだ。
森達也氏は、「本当にごめんなさい」ではなく、「責任をとるべき人はきちんと責任をとらなければいけない。それが社会を成り立たせるための大切なルールなのだ」と、先の小学生に教えてやるべきなのだと思う。
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