思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

科学と技術と科学技術、そして宗教

2012-02-20 11:35:06 | 随想
 科学とは、この世界がどうなっているのかを調べ、明らかにする学問である。この世界は無限であり、したがって、科学という学問に終りはない。また、何かがわかるということは、新たな視点を得るということでもあり、その視点からまた新たな疑問が生まれ、新たに追求すべきことが見えてくる。その意味でも終りはない。

 技術とは、この世界の操作の仕方である。人は生きてゆく上で、目的を持って、絶えずこの世界に働きかけてゆく必要がある。その働きかけ方が技術である。この世界の性質をできるだけ正確に知ることによって、より効果的な働きかけができるようになる。つまり、技術の向上のためには、この世界に関するより正確な知識、理解が必要になる。

 科学技術とは、科学的な知見に基づく技術である。科学的な知見は絶えず広がり、深化する。したがって、科学技術もそれに連れて進んでゆく。科学的でない技術もある。経験と勘だけに頼り、伝承される技術もある。それも、科学的に調べてみると正しいやり方であったりすることが多い。

 なお、科学はこの世界を調べるために、各種技術を必要とする。したがって、技術が向上すれば、この世界を、より広く、深く、詳細に、正確に調べることができるようになるので、科学もそれに連れて進展する。つまり、科学と技術は互いに助けあいながら進んでゆく関係にあるということができる。

 よく、「これは科学では説明できない」「科学ですべて説明できるわけではない」という言い方をする人がいる。それは当たり前のことである。科学は、その段階で説明できることだけしか説明できない。だから、説明できないことはたくさんある。それらは今後の課題ということになる。だからと言って、ほかの方法で説明ができるのかというと、それは疑問だ。上記のように言う人は、だいたい科学的説明に対して宗教的説明を対置する。占いやオカルト的説明をする人もいる。占いは、全く関係のない事象どうしを強引に結びつけて、一方の事象から他方の事象を説明することが多い。しかし、どうしてその2つの事象につながりがあるのかは全く説明しない。オカルト的説明も同じようなものである。

 たしかに、宗教はこの世界を説明する。その説明の仕方は、ほとんどが人間を超越する存在を前提とし、その超越者の意思として、この世界を説明する。地震や津波、雷、台風、火山の噴火などの天変地異は、その超越者の怒りとして説明されることが多い。数千年前、これらの現象について、何の説明もできなかった時代、人々はどうしてよいのかわからず、ただ恐れおののくしかなかった。そんなとき、「これは神の怒りだ」という説明は、人に何らかの対処方法を与えるという意味で画期的であった。ただあわてふためき、恐れおののくしかなかった状態から、行動の指針が得られる状態に変わったからだ。神の怒りを鎮める方法を考え、実行するという積極的な行動ができるようになるわけである。神に祈り、謝罪し、生贄を捧げるなどがその方法となる。

 宗教は人間の歴史の初期において、世界を説明することによって人に行動の指針を与え、少なくとも精神的な安定を与えたという意味で重要な役割を果たしてきた。(注)しかし、科学によってもっと適切な説明ができるようになってきたいま、もはや宗教による説明は不要になってきている。単に不要というより、かえって人間がより適切な対応をすることを妨害するものになっている。たとえば、天変地異が神の怒りだという説明は、人間の天変地異への対処の仕方を誤らせる。地震や津波については、科学によって、その発生原因はわかってきており、それが不可避なものであるということもわかっている。そうであれば、それらが到来した時の安全対策を考え、実施することが大切であり、それが被害をできるだけ少なくする対処の仕方である。今回の東日本大震災で、地震の予知の難しさを科学者はあらためて感じたと思われるが、でも予知できる可能性があるならば、その可能性を追求するしかないと思う。そういう災害が来ないように祈ることではけっしてない。

(注)精神的に不安定な状態にあり、何とかしたい、何とかしなければと考えている人間に対して、断定的な言い方で行動の指針を与えるのは諸刃の剣となる。精神科医が治療の目的で適切に行なうものであればよいが、そうでないと、たとえば、オウム真理教のような事件が起きたり、ときどき有名人が陥って話題になるが、特定の人間にマインドコントロールされて、財産を奪われたり、その人本来の活動に支障が出たりすることがある。


 たしかに、科学でこの世界のすべてを説明できるようにはなっていない。それはこれからも同じである。しかし、説明できる範囲は日々広がっている。そして、科学には、説明できない部分は宗教に任せるという考えはない。いつかは説明できるようになるはずだという信念がある。その信念に基づいて研究を続けている。それは宗教だという人もいるかもしれない。しかし、宗教ではない。宗教は、超越者という万能の説明道具を設定することで、この世界のあらゆるものを説明する。完全な思考停止である。だって、すべてその超越者の意思として説明がついてしまうのだから、何も調べたり、考えたりする必要がないわけだ。

 宗教に関しては、神様につぎのような質問をしたいと思う。ちょっとキリスト教を意識しているかもしれないけれど、絶対的な超越者を前提にする限り、どの宗教も同じ問題を持っているので、共通の質問になり得ると思われる。

<神様への質問>

1. この世界も人間も、神様が造り、支配しているのに、どうして人間は、神様が望まないこと、神様から見て悪いことをするのですか。また、天変地異など、この世界ではどうして人間にとって悪いことが起きるのですか。
人間を造るとき、神様から見て悪いことをしないように造ることができなかったのですか。この世界を造るとき、人間にとって悪いことが起きないように、いちいち神様の助けを必要としないように造ることができなかったのですか。

2. ノアの方舟の話を聞きましたが、選ばれたわずかの生命を残し、それ以外は皆殺しにするというほかに方法はなかったのですか。あまりにも残酷すぎます。神様の力があれば、皆殺しにしないで、悪い心のほうを治すという方法もあったのではないですか。
いままた「最後の審判が下されるときが近い」、「神を信じなさい、信ずる者は救われる」などと言っている人々がいますが、また皆殺しをするのですか。本当ですか。本当だとしたら、信じる人だけでなく、もっと広い心を持って、信じない人も含めてみんな救ってやってほしいと思います。

3. 歴史を勉強すると、人間による人間の大量虐殺が繰り返し起きていることを知ります。始皇帝やチンギスハン、ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポルポト、広島、長崎の原爆、ベトナム戦争など、あまり有名ではないものなどを含めれば数え切れないと思います。(これらのどれも、ノアの方舟の大虐殺と比べれば足元にも及びませんが)
でも、これら虐殺をした人たちはみんなノアの方舟で選ばれ、救われた人の子孫のはずですね。この人たちばかりでなく、いまの世の中悪い人がいっぱいいますね。だから神様を信じて救われなさいということになるのだと思いますが。そうなると、ノアの方舟の大虐殺は失敗ということになりませんか。神様でも失敗するのですか。これはちょっとした失敗ではないですよね。

4. 昨年3月11日の東日本大震災、1995年1月17日の阪神淡路大震災、共にとてつもない数の人々が犠牲になりました。地震や津波を神様がコントロールしているのだとすれば、どうしてこんなひどいことをしたのでしょうか。犠牲になった人たちはみんな罪深かったのでしょうか。あの地域には罪深い人たちが住んでいたということなのでしょうか。そんなことはないと思うのですが、仮に罪があったとして、その罪を説明し、懺悔させる機会も与えないで、いきなり殺してしまうというのはあまりにもひどいのではいでしょうか。

5. 「原罪」とか言います。でも、どうして原罪を背負わせるかたちで人間を造ったのでしょうか。神様に逆らうことができるものとして人間を造りながら、逆らうと不幸になる、罰を受けるというのでは、造られた人間が可哀想過ぎます。これは、1.の質問と同じだと思いますが、4.の問題で、生まれたばかりの子供まで犠牲になっているとすれば、その罪は生まれる以前の罪を持ち出すしかないわけで、敢えて問うものです。


* 人間を超越するものの存在を否定することはできない。しかし、存在を否定できないということは存在するということの証明にはならない。また、その存在が人間にとって善である、すなわち人間を救ってくれるものだということにもならない。はっきりしているのは、そのような存在があろうがなかろうが、現実のこの世界にはあらゆる悲劇が繰り返し起きているということだ。それにもかかわらず、全知全能の超越的存在を想定するということは、その存在がこの悲劇を起こしている、あるいは悲劇が起きるのを防ぐことができないということになってしまい、かえってその存在を貶めることになってしまう。



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