政府は「敵基地攻撃能力」を持つことを閣議という内輪の会議で決めたとか言っている。「集団的自衛権の行使容認」もそうだが、憲法を変えない限り決してできないことを、国会にも諮らず、自分たちだけで勝手に決めてしまった。「敵基地攻撃能力」を持つことは戦後の国の方針を180度転換するもので、クーデターと言ってもよいレベルの暴挙である。それにもかかわらず、そこに投入すると言っている46兆円という巨額の費用に驚いて、テレビや新聞では、クーデターそのことではなく、その金額をどう調達するのだという問題に転換して騒いでいる。
浜田防衛大臣は、敵基地攻撃とは「被害受けることを待たず、行使可能」という見解を示している。この世界では、それを「先制攻撃」と呼んでいる。「反撃」でも「自衛」でもない。憲法9条は「……武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する……」と規定している。「日本は敵基地攻撃能力を持つ」と言明することは相手国に対する「武力による威嚇」以外の何ものでもない。そして「先制攻撃」はまさに「武力の行使」である。
本当に武力攻撃に備えるというのであれば、まず、原発をどうにかしなければならないだろう。日本海側に並んでいる数十基の原発は格好の的になる。それが破壊されれば福島原発事故で学んだように、風に乗って広大な地域が汚染され、人が立ち入れなくなる。数十基ともなれば、ほぼ日本列島全域が汚染されるだろう。戦争などしているどころではなくなる。広島に落とされた原爆に使用されたウラニウムは800グラムだった。100万キロワットの発電量を持つ原発1基は1年間に1トン(1250倍)のウラニウムを使用する。そして、ほとんどの原発は100万キロワットクラスである。どれほど汚染されるかは容易に想像できるだろう。それにもかかわらず、原発をさらに増設すると言っている。とても正気の沙汰とは思えない。自衛隊が日本を守ることを本気で考えているのであれば、真っ先に原発反対を叫ばなければならないはずだ。しかし、それには沈黙したまま、武器を増やすことの要求をするばかりである。
特に安倍政権以降、文化的、経済的指標は世界の中で相対的に下がり続け、経済大国とも言えなくなったばかりか、平和的、民主的国家としてのイメージもなくなってしまった。平野啓一郎氏はつぎのようにツイートしている。
「保守だの、日本人だのと言いながら、この間、自民党は嘘、誤魔化し、言い逃れ、開き直り、不正、縁故主義、差別の放置、挙げ句の果てにカルトと癒着、……と、社会の倫理を徹底的にぶち壊してきた。そこまでよく出来るな、と言葉が出ないほど」
全くその通りだ。そんな政権を相変わらず国民は支持しているようである。
一方、言論空間は、どれほどまともなことを言おうが、詭弁、論点ずらし、罵詈雑言、茶化しなどのゴミの中に埋もれてしまい、届いてほしい人たちに届かなくなってしまっている。言論は人類が手に入れた問題解決の重要な手段であるのに、どんどんと言論の無効化が進んでいる。そして、集団間の問題の解決手段としての戦争は依然としてなくならず、続いている。戦争をなくそうという努力はせず、反対に、戦争のための武器を揃え仮想敵国を刺激しようと言うのである。さっそく北朝鮮は今回の政府の方針転換を厳しく批判している。
「朝鮮中央通信によると、『徹頭徹尾、他国の領域を攻撃するための先制攻撃能力だ』とし、『東アジアの安保環境は根本的に変わることになった』と主張した」とのこと。また「日本の不当で欲深い野望の実現の企図をどれほど懸念し、不快に思っているかを実際の行動で引き続き示す」とも言っている。(朝日新聞より)
戦争とは殺し合い以外の何ものでもない。そのための道具はより多くの人をより効率的に殺せるものへと進化している。地球上には、全人類を何度も殺せるような量の武器がすでに存在しているにもかかわらずだ。現生人類=ホモサピエンスとはラテン語で「賢い人」「知恵のある人」という意味だとのこと。しかし、人類は本当に「賢い人」なのだろうか。確かに「賢い人」はいると思う。ここで言う「賢い人」とは、この地球上に生きているできるだけ多くの人が飢えや貧困から解放され、その日々を充実したものとして生きてゆけるような社会をめざして考え、行動ができる人のことを指す。また、生存のために他者を暴力的に屈服させたり、殺したりするという生物が本来持っている機能をコントロールし、力で問題を解決するという方法をこの世界からなくすために考え、行動する人も指す。「いまだけ、カネだけ、自分だけ」で生きることについて長けている人、「悪賢い人」「ずる賢い人」は指さない。
問題は、実際にこの世界を動かしているのが「賢い人」ではないということだ。この世界を見渡してみると、なんと独善的で利己的な独裁者の多いことだろう。また、独裁者という個人ではないにしてもそれに等しい少数者集団によって動かされている国も多い。そして、地球上の半数以上の人が飢えや貧困から解放されておらず、日々の労働も「人を人として形成してゆくもの」ではなく、生物学的に生きるためだけの手段となっており、それそのものはできればやりたくないものになり下がっている。いわゆる労働の疎外である。せっかくこの世に生まれてきたにもかかわらず、「生まれてこなければよかった」と思わざるを得ない人、この世が苦しみの世になっている人が多数なのである。そしていま人類は、この地球の環境を人が住めない状態にしつつもある。自らの営みが自らを滅ぼすのである。それは、けっして「賢い人」がすることはではない。
希望があるとすれば、それは「賢い人」は存在するということであり、そして、必要なことは、その「賢い人」が「悪賢い人」「ずる賢い人」「いまだけ、カネだけ、自分だけ」「権力と財力を求めることが目的」という人たちから、「この世界を動かす力」を奪うことである。それができなければ人類は滅亡する。悪夢は続く。滅亡に向かって人類が生存できる空間はどんどんと狭くなるだろう。そしてその空間を獲得する競争でも、「悪賢い人」「ずる賢い人」が勝つならば、わずかな人間が最後まで残り、新しい世界に向けてスタートができるとしても、それは「悪賢い人」「ずる賢い人」のDNAを受け継いだ人たちによって行なわれることになってしまう。
時間はあまりない。
加速主義という考え方がある。しかし、この経済システムの運動を加速させたとき、このシステムがはらんでいる矛盾からくる弊害は、最も弱い人々にのしかかり、その苦しみを加速度的に増大させる可能性がある。また、加速されるテクノロジーは人々を監視し、管理するために使われ、いっそうこの現状から逃れることを難しくする可能性がある。そして、人類の生存条件である環境を加速度的に破壊し、人類滅亡を加速させる可能性がある。これらの可能性を回避する方法を示せない限り、加速主義は受け入れられない。
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