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「国に責任がある」「国は責任をとれ」などとよく言われる。東京電力福島第1原子力発電所の事故についても、国の責任が問われている。しかし、国が責任を取るということをもう少し具体的に考えてみると、どういうことになるのだろう。
国がしたこと、あるいはすべきことをしなかったことによってある事態が生じ、国民に損害を与えたと言うとき、実際にその事態を引き起こす行為をした、あるいはすべきことをしなかったのは、「国」という抽象的存在ではなく、一人のまたは複数の官吏という具体的な「人間」だという認識が希薄なように思われる。国が関わる事故について、重大な決定権を持っていた官吏個人が、個人的に責任を取らされるということはめったにない。たとえ責任を取らされたとしても、せいぜいそのポストを退く程度である。退いたとしても、ある程度のポストにある官吏であれば、また、別のポストが用意されていたり、その人脈が使えると見た企業が引き取って、継続して甘い汁を吸えたりすることができる。つまり、国民が国の責任を問うても、個人的には誰も大した責任を取ることはない。したがって、官吏は国民などあまり怖いものではなく、怖いのは、慣例通りのことをしなかったために自分の出世が危うくなることだけのように思われる。慣例通りのことをしていれば、それが国民のためになろうがなるまいが、特に責任を問われたり、自分の出世に影響したりはしないわけだ。
6月18日付の朝日新聞によると、東京電力福島第1原子力発電所の事故直後の昨年3月17~19日に、アメリカのエネルギー省が、アメリカ軍用機で放射線測定を行なって詳細な「汚染地図」を提供したのに、日本政府は公表せず、住民の避難に活用していなかったことがわかったとのこと。その汚染地図を活用していればそうならなかったはずだが、大勢の住民が汚染地域を避難先や避難経路として選び、結果として、浴びなくてもよかったはずの大量の放射線を浴びてしまった。
アメリカ大使館から電子メールで提供された汚染地図は、外務省経由で、経済産業省原子力安全・保安院と線量測定の実務を担っていた文部科学省に転送されたが、両省ともデータを公表せず、首相官邸や原子力安全委員会にも伝えなかったとのこと。文部科学省の担当責任者(渡辺格次長)は「当初は(アメリカ軍の)測定結果の精度がどの程度のものなのかさえ分からなかった」と、SPEEDIのときと同じような言い訳をしている。SPEEDIはコンピュータシミュレーションだが、汚染地図は実測データである。一刻も早く避難しなければならないときであれば、まず信用するしかないではないか。住民が被曝してしまってから、検証の結果、実はその地域は線量が高かったなどと言っても遅いのである。実際に、汚染地図は事故現場から北西方向の線量が高いことを正しく示していた。SPEEDIも同様であった。
この他にも、「当時は我々に任された(放射線量の)モニタリングをきちんとやることが最大の課題だった」などと言っており、上から与えられた仕事さえきちんとやっていればそれでいいのだという意識が見える。何のためにモニタリングしているのかということには考えが及ばなかったようだ。
一方、保安院の元幹部は、保安院の一室のホワイトボードに、その汚染地図がA2サイズに拡大され貼ってあったことは覚えているが、モニタリングは文部科学省の責任という意識だったと話している。たとえどんなに大切なことであっても、与えられた責任の範囲外のことをするのは他の部署の領域を侵すことであり、官吏にとってはタブーなのかもしれない。
朝日新聞の取材でわかった今回の件について、果たして文部科学省、保安院、個人がどこまで責任を問われるのだろう。たぶん、SPEEDIのときと同様に、うやむやにされるのではないだろうか。失敗をうやむやにしてくれるのだから、彼らはそこからは学ばない。失敗に学ばないものは、いつも同じような失敗をする。もちろん彼らはそれを失敗などとは考えていないが。彼らにとって失敗とは、出世に影響するようなことだけのように思われる。
「国の責任」というとき、もう一つ問題になるのが「賠償責任」だ。与えた損害に対して賠償金を払うわけだが、そのお金は国民の税金だということが、忘れられているように思われてならない。東京電力福島第1原子力発電所の事故についても、政府の対応が問題にされ、国の責任が問われている。それが認められれば、東京電力が起こしたこの事故で発生した損害の賠償金の一部(割合はよくわからない)が、国民の税金から支払われることになる。被害者が収めた税金も当然含まれている。たとえその一部に過ぎないとはといえ、自分が支払ったお金で賠償されるということには違和感を覚える。
国が失策をしたら、その国民が税金で損害賠償をするということである。しかし、国の失策というものを具体的に考えてみると、実際には官吏という特定の個人が失敗をしたということだ。そうであれば、その個人が損害賠償の相当部分を負担する必要があるのではないか。たとえば、今回アメリカから提供された「汚染地図」を住民避難に生かさなかったために、余計な放射線を浴びてしまった人たちから訴訟が起こされ、結果として損害賠償をすることになったとする。この件について、「汚染地図」を適切に処理しなかったのは「渡辺格」という個人である。その処理に、国民はまったく関与していない。また、渡辺格をその責任者として任命したのも国民ではまったくない。それにもかかわらず、いまの国の仕組みでは、失敗をした渡辺格ではなく、国民が賠償金を支払うのである。渡辺格には、大した痛みも感じない程度の、わずかばかりの減給処分くらいはあるかもしれない。これはどう考えてもおかしいと思う。
「国の責任」を問う場合、国民は「国」を相手取って訴訟を起こすのではなく、その責任者個人を相手取って訴訟を起こしてみてはどうだろうか。責任をとらなくてもよい人たちの集まりである国家機関は、メンバーであるその個人を助けないと、同類である自分たちの身にも及ぶことになるので、防御は堅固だろうと思われる。したがって、勝訴は難しいとは思うが。
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