思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

62=36億

2016-02-24 18:21:43 | 随想
 少し前の話題になるが、飢饉救済を目的としている国際NGO「オックスファム」は、スイスの金融機関の調査データなどをもとに推計し、2015年に世界で最も裕福な62人の資産の合計が、世界の人口のうち、経済的に恵まれない下から半分(約36億人)の資産の合計とほぼ同じだったとする報告書を発表したとのこと。世界の人口の半分の資産と62人の資産が等しいというこの異常さに人はもっと注目すべきではないか。また、その富裕者の人数が、2010年は388人であったものが、2014年は80人、そして2015年は62人となり、富の集中が異常な速さで進んでいることになる。ある個人が、たまたま獲得したに過ぎない能力と、そのめぐまれた環境によって巨万の富を築き、世界中の富が、そのような人たちに異常に集中してゆくという現在のような社会が長く続くわけはない。すでに難民問題、イスラム国などの暴力の台頭、世界的な経済の行き詰まりなど、混乱は始まっている。この混乱はますます大きくなるだろう。

 こういう状況の中では、いったい国の役割とは何かということを考えざるを得なくなる。国の役割としては、個人あるいは集団の私的な暴力の横行を防ぐことで、安心して生活ができる場を提供するというものがある。すでに以前のブログで紹介したが、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』では、国というものが成立することによって、暴力による死者がいかに少なくなったかが、データを示しながら説明されている。アフガニスタンやイラク、リビアなど、アメリカを中心とした外国の力で国が破壊されてしまった地域では、いまだに暴力による死者が絶えないことを見ても、それはわかる。しかし、国の役割はそれだけではない。安定した社会を維持するには、つぎのような重要な役割がある。

 それは、冒頭で述べたような極端な格差をなくすことである。人は生まれながらにして不平等である。まず、その遺伝子レベルでの能力が平等ではない。よく、「努力」という尺度が持ちだされ、人はどれだけ努力しているか、努力したかで評価すべきだという言い方がなされる。しかし、生まれながらにして努力ができる能力を持った人と、それができない人がいることを見落としてはならない。また、人は、どの国の、どの地域の、どういう家庭に生まれるかということも選択できないのだ。このような不平等な条件のもとで自由な経済活動をするということは、あらかじめ勝敗が決まっているも同然である。競争において、スタート地点が違うし、スタートした後に走る路面の状態も違うのである。前の方からスタートし、走りやすい路面を走れば、その差はどんどん広がってしまうのだ。

 ジャレド・ダイアモンドはその著書『銃・病原菌・鉄』で、どうしていわゆる先進国と後進国(政治的に正しい言葉としては「発展途上国」)の間にこのような大きな差ができてしまったのかを、主に地勢的観点(大陸の形まで含めた地形、気候、植生など)から説明している。地勢的な有利、不利から生まれる差異が時間の中で増幅され、現在の差にまでなったというわけである。民族的な能力の差ではない。後進国出身の人も、先進国の中で教育を受ければ、先進国の人と同様の能力を発揮する。もちろん、個人間の能力の差は、先進国の人と同様にある。

 有利な条件にあるものは、その有利さを活かして富を獲得でき、その結果として有利さは増幅し、増幅した有利な条件がまたそれ以上の富を生むというスパイラルが続く。こうして、不利な条件にあるものとの差がどんどんと拡大してゆく。外部から別の力が働かないかぎり、つまり、国がその力を発揮しない限り、この格差の拡大は極限にまで達する。たった62人が36億人の資産に等しい資産を持つという現在は、その極限に十分近いのではないか。

 この状態をこのまま放置すれば、日々生きられるかどうかギリギリのところで生活している人たちはさらに増え、その不満はいずれ爆発するだろう。世界的な混乱は避けられないだろう。また、多くの死者が出ることになる。国の役割は、特定の個人に異常に集中してしまった富(たまたま授かったにすぎない能力と社会的条件によって得られた富)を、社会を維持するために使うべきだ。地球上に暮らす全ての人(70億人)が、日本国憲法のことばを借りれば、「健康で文化的な生活」ができるようにするべきだ。そして、富が特定の個人に異常に集中してしまわないような仕組みを作ることだ。その仕組は特別に難しいことではない。以下に紹介する記事にあるように、アメリカでは、1930~80年代まで、そのような仕組みが機能しており、その中で経済成長が続いていたのである。

 2月24日の朝日新聞のオピニオン欄で、ピケティー(『21世紀の資本』の著者)は述べている。

 1930~80年までの半世紀に、米国で年収100万ドルを超える層に課された最高税率は平均82%だった。40~60年代、ルーズベルトからケネディ大統領までの時代は91%に達した。
 米国で、この政策が戦後の経済成長の勢いをそぐことは一切なく、相続税にも高い累進税率が課され、その税率は何十年もの間、巨額の財産に対しては約70~80%だった。
 一方で、この一連の政策は大きな反発を生んだ。白人有権者のうち少数の反動的な人たちと、金融エリートの間では特にそうだった。
 (彼らの意思を代表するレーガン政権になって)86年、最高税率を28%まで引き下げた。……当然、格差は爆発的に拡大し、超高額給与が生まれることになった。しかも経済成長は低調で、大多数の人たちの所得は停滞した。
 レーガンはまた、最低賃金の水準を上げないことも決め、69年は時給11ドル近かったが、2016年は7ドル程度だ。


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