思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

ロボットと資本主義経済

2016-04-04 19:37:01 | 随想
 先ごろ、コンピュータが囲碁で世界のトップレベルの人と対戦し勝利したということが話題になった。囲碁で勝利したのはコンピュータと言っても、人間によって作られた学習能力を持った装置であり、実際には人対人の闘いということも言える。一方は生身の人間であり、もう一方は確実に大量のデータを記憶し、そのデータを高速処理する能力を持つ道具を使う人である。したがって、後者が勝つのはある意味では当然だとも言える。

 囲碁もその一例だが、いわゆるAI(人工知能)が研究段階から実用段階に入っているようだ。自動車の自動運転も一般道路でのテスト段階に入ってきている。介護ロボット、受付ロボット、お掃除ロボット、災害対応ロボット、産業用ロボット、軍事用ロボットなど、実にさまざまなロボットが作られているが、特に、「考える」というレベルでロボットが人に近付きつつある。従来、人間と機械とは明確に区別され、仕事上での役割分担はかなりはっきりしていた。今後は、それがあいまいになり、ついにはすべてロボットや機械で置き換え可能という時代が来るかもしれない。

 人の機械的な動作の面だけでなく、頭脳の面においても、人の能力を拡大するもの、それを補助するものとしての、このような技術の発展は、たしかに、すばらしいものであるかもしれない。しかし、科学や技術そのものは、それがどのように使われるかによって、人にとって役立つものになったり、反対に災厄をもたらしたりするものである。火薬の発明などはその好例である。そのような目で見たとき、現在の社会の仕組みの中で、ロボットや機械がどんどん人に置き換わって活躍するようになるとどうなるのだろう。

 資本主義経済システムの中では、人にとって必要なものはすべて商品として作られている。サービスも商品として提供されている。しかし、商品は買われなければならない。商品を提供する側は、それを売って元の貨幣に変え、その貨幣でまた原材料を買い、働き手を雇い(給料を払い)、再び商品を生産し、その商品が再び売られるという循環システムになっている。この循環が滞りなく回れば経済は順調に機能しているということになる。

 さて、商品の生産、商品としてのサービスの提供について、そのほとんどを人に代わってロボットができるようになったとき、できあがった商品や、準備されたサービスをいったい誰が買うのだろう。従来は、商品の生産やサービスの提供は人の労働によって行なわれてきた。その人たちは労働の対価として賃金=お金を受け取り、そのお金で商品を買い、サービスを受けることによって生活を維持してきた。

 しかし、来るべき世界では、そのような従来の方法ではお金を手に入れることができなくなってしまう。労働はロボットがするからだ。ロボットに仕事が奪われてしまうので、お金を得る手段がなくなるのだ。資本主義経済システムの中で、人がその仕事を奪われるということは大変なことなのである。生活ができなくなるのだ。現に日本の労働者は、経済的に遅れた国の労働者に仕事を奪われまいと、賃金を含めた労働条件を下げることで、彼らと競争し、なんとか生活を維持しようとしている。ところが、ロボットや機械との競争になると、もはや太刀打ち出来ない。ロボットは人に比べればミスが少なく、高速に、正確に仕事ができる。通常は訓練も不要である。(学習型ロボットは経験を積むほどに能力が高まるが)そして、機械は生活をする必要がなく、また、人のように休む必要もないからだ。精神的な病を発症することもない。だから、仕事の獲得競争において、人がロボットや機械に負けることは必至である。

 一方、資本主義経済システムというものは、企業間の競争に勝ち、目の前の利益を最大化することが至上命令であり、そのためには、商品生産のコストを極限にまで下げてゆく必要があり、機械化、ロボット化の進展は、資本主義経済システムそのものが要求するのである。資本家が強欲だからそうするのではない。そうしないと競争に負ける。負ければ退場するほかないのである。いままで行なわれてきた労働賃金の安い地域への生産拠点の移動も同じ要求であり、コスト削減がその目的である。人をロボットに置き換えることがこのシステムを崩壊させることであっても、そうせざるを得ないのがこのシステムなのだ。過渡期では、そうすることによって、そうしない企業に勝てるわけだ。だからそうする。そうする企業の数があるレベルを超えたときに、一気に崩壊に向かう。世界中の人がその生活基盤としていたシステムが崩壊することは、人にとって未曾有の災厄につながることになるおそれが十分にある。

 人間はロボットや機械にはできない仕事をしてお金を得るのだと言う人がいるかもしれない。しかし、具体的にはどんな仕事なのだろう。いくつかはあげられるかもしれない。仮に、人間にしかできない仕事があったとしても、その仕事に就くことができる人は限られた数にしかならないだろう。世界中の大部分の人がそのような仕事に就くことはできないだろう。であれば、大部分の人の収入は絶たれる。ということは、ロボットや機械によって作り出された商品は売れない。生産物は商品としては成立しなくなる。

 政治というものが、もし本当に人のためにあるものであれば、このような問題をもっと真剣に考え、このシステムの崩壊に伴う途方も無い災厄を避けるため、新しいシステムを探り、徐々にその方向を切り替えてゆくことがその役割のはずである。ところが、現在の政治は、それぞれの国のお金持ちたちの利益を拡大すること(=経済成長)が最優先事項となっており、その障害を取り除くこと(=規制緩和)が仕事になっている。したがって、いまの政治家には何も期待できない。

 以上は、私の少ない経験と知識の範囲内での憂慮であり、まったく新しい種類の仕事というものが創出され、世界中のほとんどの人が、その仕事に就くことで収入を得られ、商品を買い、生活ができるようになるのかもしれない。あるいは、来るべき世界で、多くの人が納得でき、受け入れることができる、生産物の適切な分配方法が考えだされるかもしれない。でも、心配なのは、「教育」というものを、いまの政府は「経済成長」というものに目的化しようとしている点である。大学についても、目の前の経済成長にとってあまり役に立たない部門が軽視され、産官学連携という言葉に示されているように、産業に貢献するような教育が推進されている。そのような教育のあり方で、新しい種類の仕事や、来るべき世界での生産物の分配方法などを考えだすことができる人、これからの社会を担ってゆく人を生み出すことができるのだろうか。かなり疑わしい。

 教育というものは、特定の時代の産業が要求するものに目的化されるべきではない。この世界、自然、社会がどうなっているのかを明らかにしてゆくことこそ、その目的とすべきだと考える。そうすることで、特定の時代のイデオロギー(いまの時代で言えば、資本主義経済こそすべて、だから経済成長こそすべてという考え方)に縛られず、特定の時代の社会のシステムが行き詰まってきたとき、それを越えて新しいシステムを創出できる人を育てることができるのだと思う。この世界をより広く、より深く知ることが、この世界をより適切に操作できることにつながるのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿