思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

政治的問題を避けることの政治的意味

2015-12-21 16:11:08 | 随想
 朝日新聞によると、北海道美瑛町の町社会福祉協議会が、安全保障関連法案について「皆で考えよう」と呼びかけるチラシを町民に配ったところ、自民党支部から質問状や関係者の処分を求める文書が相次いで出され、理事4人が退任していたことがわかったそうである。チラシには「皆で考えよう安全保障法案」「いま、世界では紛争により尊い命がうばわれています。今の平和と幸せを次世代につなげたい。私たち美瑛町社会福祉協議会は争いのない助けあいの社会を目ざします」と記されているだけである。

 さいたま市大宮区の公民館で発行している月報に憲法9条を詠んだ句が掲載拒否されたり、東京都の日野市役所が、古い公用の封筒を活用するにあたって、表に印刷された「日本国憲法の理念を守ろう」という言葉に黒塗りを施したり(憲法第99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定されている)、「安全保障関連法に反対する学者の会」が学生団体「SEALDs(シールズ)」との共催で計画したシンポジウムについて、会場使用の申請を受けた立教大学が「純粋な学術内容ではない」などの理由で不許可にしたり、内容が政治的だと出展している美術家に作品の改変を要求したり、テレビの番組でも、司会者は出演者が政治的問題に触れそうになると話を別の方にそらしたりと、近頃、この手の話をよく聞く。

 少し古いが、朝日新聞の『折々のことば』につぎのような話も出ていた。

「この国では意見を持つ行為そのものが、空気が読めないってことになってしまうらしいんです。」

 式で君が代を歌わない教諭を笑う友だち、気づかないふりした自分、目を塞いだ管理職。そんな苦い記憶から抜け出るためにデモに参加したと、この学生は言う。

 ここで問題にされているのは、もちろん「政治的意見」のことである。もっと正確に言えば、「現政権を批判する意見」である。

 問題だと思うのは、政治的問題を避けることが、非政治的であるとか、政治的に中立だと思っている人が多いことである。政権の批判を避けることは、まさに政治的行動であり、現政権を実質的に支持する行動であることがわからない人が多いことである。実は、わかっていても、それをすると自分にとって不利益になると考えて、そうしないという人が多いのかもしれない。上から「歌え!」と言われたので「式で君が代を歌う教諭」もそうかもしれない。「式で君が代を歌う教諭」を笑わないで、「式で君が代を歌わない教諭」を笑う友だちもそうかもしれない。それをごまかすために、政治的無関心を装うのかもしれない。

 政治的無関心を宣言しても、政府が増税を決めればそれに従わざるを得ないし、徴兵制を敷けば、兵役の義務を負うことになって戦地に出向き死ぬことになる。そのときの政権にとって、政治的無関心派が増えることは喜ばしいことである。頭をなでてあげたい思いだろう。なにしろ自らの政策に反対しないし、抵抗しないからである。実質的に賛成派と同じ効果を持つからである。政治的問題を避けること、無関心でいることは、本人の意思に反して、現政権を助けるという非常に政治的な行為なのだ。

 安倍首相の祖父である岸信介による新日米安全保障条約の強行採決に抗議する国会前の抗議デモに対して、岸は「国会周辺は騒しいけれど、後楽園球場ではいつも通り巨人戦に民衆が詰めかけて、銀座では若い女の子や男の子が手をつないで歩いている。私にはこういう“声なき声”が聞こえる」と言っている。非政治的な人たち、政治に無関心な人たちが「私を支持している」ということだ。今回の安保法案への国会前反対集会についても、安倍首相は、その祖父が言ったことをよりどころとして、あまり気にもしていないのではないか。

 だから、あんな集会は意味が無いのだろうか。だから、政治的無関心を気取ることが正しいのだろうか。実はあの抗議デモは、安倍首相の意思を変えようとして行なっているのではなく、心ある国民に訴えているのである。この国の人々の政治的無関心、非政治的態度がこの国を危うくしてしまうことを、安倍政権というものがどういうものであるのかを、このような政権に日本を任せるとどうなるのかを訴えているのである。だから、強行採決されたことは敗北などではなく、安倍政権はこういうことを平気でする政権だということを明らかにしたという意味で一定の効果をあげたわけだ。それによって、国民がもっと政治に目を向けるようになれば、特定のグループが自分たちの利益ためにこの国をコントロールしようとしている現状を変えられるかもしれないのである。

 政治的無関心は独裁政治を招く。彼らの「憲法草案」でもわかるように、現政権は「日本国憲法」が保障している「思想、信条の自由、集会、結社、言論、出版その他一切の表現の自由」を「国益」という言葉で封じ込めようとしている。自分たちは「国益」を守るために政治をしているのだから、それを批判する奴らはけしからん、非国民だ、国賊だというわけだ。彼らの反対者も「国民の利益=国益」を考えて発言しているにもかかわらず。「憲法」が、その条文で「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」としている「公務員」が、「憲法を守ろう」と言えない日本の現状は異常というほかはない。危険な方向に向かいつつあると言えるのではないか。

 「一切の表現の自由」とは、権力を批判する自由というところにしか意味はない。世界中の独裁的な国のすべてには「権力を批判する自由」がない。権力を擁護し、讃え、それに服従する自由は独裁国家にもあるし、この日本にもあるし、いつの世でもあった。このまま国民の政治的無関心が進むと、日本も中国と同じように、政権批判をすることができなくなってしまうかもしれない。冒頭にいくつかあげたような例がある。また、政権側からの放送内容への介入が公然と行なわれるようにもなってきている。そのうち、政権批判の臭いがするだけで、政権側から圧力がかかり、何も言えなくなる時代が来るかもしれない。それを通り越して、北朝鮮のように、積極的に政権を讃えることまで要求されるようになるかもしれない。自由と民主主義を守る「自由民主党」万歳!偉大なる党首様万歳!


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