思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

『自由』であることは…奴隷ではないということ

2019-07-07 18:40:28 | 随想

 「古代世界のどこにおいても、『自由』であることはなによりもまず奴隷ではないということを意味していた。奴隷であるということは、なによりも社会的紐帯およびそれを形成する能力の消滅を意味していたので、自由とは他者に対するモラル上の関与を創出し、それを維持する能力を意味していたのである。」(『負債論』第7章)

 「自由」という概念が、「奴隷ではない」というところから形成されたのだということが非常に新鮮で興味深く感じられた。奴隷制度についての広範な歴史調査を行なったエジプトの社会学者(アリ・アブド・アル=ワヒード・ワフィ)が定義するところでは、奴隷制度とは、ある人を、その人たらしめているあらゆる社会関係から剥奪してしまう制度であるとのこと。

 そうであれば、自由になるということは、その人が元のように社会関係、すなわち、ほかの人々との関係を持つことができるようになるということである。だから、「自由になるということ」が「好き勝手ができるようになる」ということでないのは明白である。刑期を終え、刑務所から出て自由の身になることを「娑婆に出る」というが、「娑婆」とは、「釈迦が衆生 (しゅじょう) を救い教化する、この世界。煩悩 (ぼんのう) や苦しみの多いこの世」(goo国語辞書)という意味であり、刑務所という「社会から隔絶された世界」から「人々が生活しているこの世界」に出てくるということは、まさに、この社会に復帰し、社会と関係を持つようになるということであり、好き勝手ができるようになるという意味とはまったく違うわけである。裏社会でよく使われる言葉だとしても、意味が深く、面白い使い方である。

 「自由=好き勝手(ただし例外あり)」という素朴な理解の仕方にはどうもしっくりこないものがあった。孤島でロビンソン・クルーソーは究極の自由を持っていたことになるが、実際に彼は、自由を感じたのだろうか。自由とは人と人との関係の中でしか意味を持たないのだ。また、奴隷でない者の自由と奴隷の自由との違いは、後者の自由には例外が多すぎるものの、単なる程度の差でしかないということになる。

 自由になることを人間関係が構築できるようになることだとすれば、この世界で自由に生きるということは、それぞれの人が他の人を自身と同じ人として認め、さまざまな関係を構築してゆくことなのではないか。人と人との具体的な関係はさまざまなものではあるが、そこに共通して求められるものは、共によりよく生きてゆくための関係であろう。

 自由主義経済という概念がある。自由という名前が付いているが、この経済システムでは、人が必要とするモノの生産を、競争の基において行なう。競争主義経済と呼んだほうが正確かもしれない。競争によって人はよりよいものを生み出し、生み出されたよりよいものによってより幸せになるはずだという信念に基づいている。したがって、このシステムでは、人と人との関係を、互いに競争をする関係として築くのである。問題は、その信念は正しいのかということになる。

 しかし、「自由」の概念を先の理解に照らして考えれば、「自由=自由競争」としなければならない理由は何もないということが言える。自由主義経済を、人が共によりよく生きてゆくための関係としての経済関係として再定義してみれば、人々が共によりよく生きてゆくための経済関係はいかにあるべきかという問題に変わる。競争主義はその一つの形態として相対化される。つまり、「競争経済」以外の形態を考えてもよいということになる。どれほど矛盾があり、不平等があり、悲惨な状態におかれている人々があり、戦争があり、虐殺があっても、これしかないのだからこの中で何とかするしかないという思考の呪縛から解放されるのである。

 競争からは勝者と敗者が当然に生まれる。しかも、この競争は全員が同じスタートラインに立って一斉に始められる競争ではない。どんな国の、どんな親のもとに、どんな遺伝子レベルでの能力を持ってこの世に生まれてくるかで、スタートラインが全く異なる。だから、勝敗はあらかじめ決まっている。よく「努力」を強調する人がいるが、「努力できること」も遺伝子レベルでの能力の一つである。

 したがって、競争主義経済社会において、政治というものは、敗者をどのようにフォローしてゆくかということが大きな課題となるはずだ。そのフォローができなくなれば、社会は混乱に陥るからである。いま、「自己責任」という言葉があちこちで聞かれるようになり、このフォローが軽視されるようになってきた。勝者は自己責任で生きてゆけるが、敗者はある意味で、自己責任で生きてゆけない人たちなのである。だからこそ社会的フォローが必要なのである。ところが、いまの日本では、「自己責任」という言葉が、敗者に向かって、弱い人たちに向かって、そういう人たちを見捨てるための、そして見捨てる側の自己正当化のための言葉として投げつけられている。そして、競争の中で勝者と敗者の格差は拡大してゆく。

 国際慈善団体オックスファムの年次報告書によれば、世界で最も裕福な26人が、世界で所得が最も低い半数38億人の総資産に匹敵する富を握っており、しかも貧富の格差は拡大し続けているという。日本の場合はどうだろう。世界の経済誌『フォーブス』によれば、資産10億ドル以上の超富裕層は世界で1800人いて、その中に日本人は24人いるという。1位はファーストリテーリング社長の柳井正氏の202億ドル(約2兆1800億円/1ドル=108円として)、2位がソフトバンクの孫正義氏で141億ドル(約1兆5200億円)、3位は楽天会長・社長の三木谷浩史氏で87億ドル(約9400億円)だという。3人合わせると約4兆6400億円となる。日本では富は集中していないと言う人もいるが、国家予算が一般会計、特別会計合わせて約300兆円、税収が約40兆円とすれば、たった3人の資産が約4兆6400億円という事実を見て、集中などしていないと言えるのだろうか。

 また、総務省統計局の調査によると、2018年の非正規雇用は10年前と比べ350万人あまり増え、約2120万人となり、働き手に占める割合は約38%と過去最高の水準とのこと。そして、非正規労働者の年収は男性で58%が200万円未満、女性にいたっては83%が200万円未満となっている。今度の参院選で「れいわ新選組」から立候補した渡辺照子さんは、約17年間働いてきた派遣先の企業から突如、契約終了を告げられた。「あんたは派遣だからいつやめてもらってもいいんだけど、今やめて」って言われて突然クビを切られた。「派遣だから何年勤めても退職金は一銭もあげないよ」とも言われた。ボーナスも手当ても、それに交通費すらもらえなかったと言う。他にも、学費を払えないから大学に行けないという若者が増え、奨学金がもらえても、卒業後は奨学ローンに追われるので結婚もままならないという話も聞く。日本では格差は拡大していないのだろうか。

 富が局在化してゆくということは、実は彼らの富の源泉であるこの仕組みが崩壊してゆくということでもある。つまり、モノやサービスの買い手が縮小してゆくということなのである。買い手が縮小してゆけば、モノやサービスが売れなくなり、売れなくなれば、それらを製造、あるいは提供する企業の倒産が増え、人々は職を失い、収入源を失って買うことが困難になり、ますます売れなくなる。この悪循環の中で経済はどんどんと不況の深みにはまってゆく。社会的不安は高まり、混乱が起き、この仕組そのものが機能不全に陥ってゆくのである。

 「もはや製造業の時代ではない」としたり顔で言う人がいる。たしかに彼らの多くが、勝ち馬ならぬ勝ち組企業への投資で、すなわち賭け事で儲けている。何かを作り出しているわけではない。「モノを作って、売って儲ける時代ではなく、お金を運用して儲ける時代だ」ということだろう。でも、彼らは集めたお金を何と交換するのだろう。製造業、サービス業が作り出すモノやサービスではないのか。儲けたお金を貯めること、より多く貯めることだけが目的でない限り、彼らが贅沢な生活をするためには製造業、サービス業が必要なのである。ちなみに、日本一の大富豪の柳井氏はユニクロという製造業の代表である。

 少し話は違うかもしれないが、現在の政権は近々消費税を上げると言っている。これも目先のことしか考えない馬鹿げた政策だろう。収入が上がらない中で、消費税を上げれば、買い手の財布の紐はより固くなり、モノやサービスの売れゆきは落ち、経済は停滞する。そして深刻な不況に陥ることになる。

  • 実は彼らも、そのこと(社会的混乱が大きくなること)をわかっているのかもしれない。だから、外に敵を作って自分たちから目をそらすように仕向け、各種の暴力装置を強化し、その行使のために憲法を変更し、法整備をし、メディアをコントロールし、そのときに備えているのかもしれない。

 いまこそ、「自由」の意味を「人が奴隷ではないこと」という本来の意味で捉え、「自由主義社会」=「人が他の誰かの奴隷のような存在になることのない社会」として考え、人が共によりよく生きてゆくための関係を構築することを目指し、そのための経済関係はいかにあるべきかということを考えてゆくときではないか。仮に、人々のために、GDPの増大や生産性の向上、生産の効率化が必要だとしても、それは目的ではなく、人々の幸福を図る手段であるとして認識する必要がある。それが手段であるならば、それは目的の範囲内で使うべきものである。間違えても、生産性の向上や生産の効率化が、働く人を苦しめることになったり、それによって多くの人が、この経済活動にとって不要な存在になったりしてはならないのである。



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