
先日、ツイッターにつぎのようなツイートがあるのを見かけた。
保立道久@zxd01342 11月2日
過去は目の前にあって昨日と変わらない。未来は背中の側にあって見えない。我々は後じさりしながら未来に入っていく。Back to the futureというのはオデッセイアにもでて15世紀くらまでは世界的に確認できる時空観念らしいです。未来はオンブお化けのように私たちを呪縛しているという訳でしょうか。
これを読んで、過去というものの大切さを感じたので、少し、このことについて考えてみた。
人は背中に目があるわけでもないのに、その方向=未来にしか進めない。つまり、見えない方向に歩いてゆくしかない。この事実からまず言えることは、後ろ=未来に何があるのかは推測しながら歩くしかないということである。当たり前と言えば当たり前であるが、では、どのようにして推測するのだろう。それは、過去=経験をもとにして推測するしかない。直観も、経験から生まれたものである。経験が一切なければ直観は生まれない。生まれつき持っている行動原理もあるだろうが、それも、遺伝子に刻み込まれた経験である。遺伝子とは、ある意味で過去が蓄積されたものである。ある行動原理に結びつく遺伝子を持った個体が過去の環境条件の中で生存にとって有利であったということで生き残り、子孫を増やしてきたわけである。
つまり、人にとって(すべての生物にとって)経験は、この上なく重要だということになる。それなしに、進む方向にあるものを推測することはできないからである。確かに思い出したくなどない過去もある。思い出す必要のない過去もある。しかし、経験を無視して進むことは無謀と言うしかなく、そんなことをすればすぐに危険に遭遇し、生き残ることは難しいだろう。われわれは過去を手がかりにして進むことしかできないのである。「現在」も厳密にいえば過去だろう。目に入ってきた光は網膜から視神経を通り、脳内の視覚野で処理されてから初めて「見える」のだから。飛び交う情報も、過去のものであり、「現在」のものではない。宇宙からの情報は何千万年、何億年も前の情報である。そういったあらゆる過去の情報をもとに、背中の方向にあるものを推測ながら進んでいるわけである。
なお、ここで述べている経験とは個人的なものだけを指しているわけではない。ことばが生まれる前から、共同体として助け合って生きる人間は、みずからの経験を他のメンバーに伝え、他のメンバーの判断に役立てることをしてきたであろう。ことばが生まれ、また、それを記録することができるようになり、それはいっそう正確に、より詳しく、より多くの人に伝えることができるようになってきた。人は過去の他者から、そして、同時代の他者からその経験(見たこと、聞いたこと、調べてわかったことなど)を学ぶことによって、個人的な経験の限界を超えることができる。だから、学ぶことは大切なのである。
このように述べてくると、物理法則などの科学的法則によって未来が高い精度で見えるという意見が出てくるかもしれない。しかし、そのような法則も過去の研究の中で見つけ出されてきたものであり、未来を推測するため(見るためではない)の道具として使われる過去の遺産だと言うことができる。「ラプラスの悪魔」というお話がある。「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう」(ラプラス著『確率の解析的理論』1812年)というものである。まず、人は「ある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ること」はできない。また、量子力学によって「原子の位置と運動量の両方を同時に知ることは原理的に不可能である」ことが明らかになっている。この世界が複雑系であり、単純な法則も、互いに関係し、絡み合ってくると、その結果は計算不可能な状態になることもわかってきた。したがって、未来を完全に予測して知る、背中を向けたままその後ろを完全に見ることはできないのである。もちろん、科学はより確実な予測ができるように、今後も進んでゆくであろう。暴力によって歪められない限り。
先に、思い出したくない過去、思い出す必要のない過去もあることを述べたが、個人レベルの問題であれば、忘れた方がよい過去、思い出す必要のない過去もある。しかし、共同体としては別の問題になる。特に、民主主義的な共同体においては、特定の人たちが忘れたいと言う過去も、思い出す必要などないと判断する過去も、他の人たちにとっては忘れてはならない過去であったり、思い出す必要がある過去であったりする。それを、特定の人たちが、その権限を利用して、強引に、なかったことにしてしまう共同体は、もはや民主主義的とは言えないばかりでなく、経験を十分に活かすことができず、進む方向を誤ることになり、その共同体を危機にさらすことになるだろう。
現在の政権は懸命に過去を消し去ろうとしている。森友問題、加計問題、自衛隊の海外派遣の問題など、記録を隠滅し、改ざんし、記憶から消し、いったい何があったのかがわからないようにしている。あれこれの問題が指摘されるようになってからは、記録の保存期間をできるだけ短くするという規則を作り、一刻も早く消し去ろうとしている。詳しい経緯を記録する必要はないという通達までも出し、とにかく、過去を検証されないようにしている。何のために?自分たちにとって都合の悪い事実を隠ぺいするために。それ以外に過去の記録を消したり、改ざんしたりする必要があるだろうか。特にデータの電子化が簡単にできるいま、記録の保管場所に困ることなどは考えられない。
また、この国が過去にどんな失敗をしたのか、その失敗の記録は、同じ失敗をしないためにこの上なく大切なものである。この国の人だけでもおよそ310万人の命が奪われた、先の戦争の記録はできるだけ正確に残し、伝えてゆく必要がある。二度と同じ失敗をしないために。それにもかかわらず、失敗を失敗として認めない人たちが少なからずいる。そして、現在の政権内部にそのような人たちが増えてきており、彼らの権限で教科書からも過去を消し去ることまでしているのである。この国は過ちなど犯さないというみずからの願望と過去の事実とを区別できない人たちである。そういう人たちは同じ失敗を繰り返すだろう。そんな人たちが権力を持ち、この国の未来を決めてゆくとすれば、恐ろしいことである。
政権を担当する者は、この国のこれから=未来を考えながら政策を検討し、作成し、実行しなければならないのはあまりにも当然のことである。そのためには過去に何があったのか、何をしたのかという記録は欠くことのできないものである。それなしに未来を推測することはできないのである。それなしでは同じ失敗を繰り返す危険がきわめて大きいのである。そのような大切な記録を、自分たちにとって不都合なことを隠滅するために消す、隠す、改ざんするなど、あってはならないことのはずである。それにもかかわらずそういうことをするのは、彼らが、この国の未来より目先の自分たちの利益の方が大切だと考えていることを証明している。
過去の事実をないがしろにし、勝手な推測によって「こっちだ!」と断定するような人たちが指示する方向などまったく信じられないし、その方向になどけっして進みたくない。この国が彼らによって壊されてしまう前に、一刻も早く彼らを退場させる必要がある。
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