思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

他の内閣より良さそうだから

2018-10-12 00:14:54 | 随想

 自民党の総裁選で安倍首相が三選され、第4次安倍内閣が発足した。憲法を変えるそうだ。しかし、憲法第99条(天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ)の規定によって、その尊重と擁護の義務を負っていながら、そんなことはお構いなしに、従来の総理大臣も、内閣法制局も、法の専門家の多数もそれぞれに憲法違反であるとしてきた「集団的自衛権」の行使を容認し、それにかかわる安保法制の制定を簡単にやってしまうような人たちが、どうして憲法改定を声高に叫ぶのだろう。彼らにとっては、憲法も法律も、詭弁で都合の良いように捻じ曲げられるものなのだから、敢えて改定などする必要はないはずである。警察、検察、そして裁判所でさえ、人事権を利用して、彼らの息のかかったもので固めることでコントロールしているのというのに。

 たとえば、森友学園 瑞穂の国紀念小学校(首相夫人が新設学園の名誉校長であったが、問題が発覚すると退任した)、加計学園 獣医学部(その経営者が安倍首相の長年の友人)の開校を多額の国税および県民税を使って支援する件を、首相案件として処理させ、その決定過程にかかわる公文書の破棄、改ざんを指揮した者、また、甘利明 元経済産業大臣(大臣室で1200万円を受け取る)、下村博文 元文部科学大臣(加計学園から200万円の闇献金を受け取る)、山口敬之 元TBSワシントン支局長(詩織さんを昏睡させ強姦した犯人、アベ友で安倍首相の御用記者)等々、すべて起訴さえされないままで無罪放免されてしまっている。(甘利、下村の両氏は、後できちんと国民に説明すると言っておきながら、いまだに説明がないし、するつもりもないようだ。二人共に第4次安倍内閣の要職についた)

 憲法、法律何するものぞと好き勝手に振る舞っている彼らが、それでもなお改憲をめざすのはなぜか。それは、彼らの憲法感にあると思われる。彼らは、憲法は自分たちではなく、国民が守るべき規範だと思っているようだ。現行憲法を盾にして、自分たちがあれこれうるさく言われるのは、現行憲法が国民を甘やかしすぎているからだと感じているようだ。もっと厳しくし、権力に逆らえないようにしたいようである。権利ばかり主張するのはけしからん、主張する前に、彼らが考える義務(たとえば、戦争で血を流し、命を捨てる義務、滅私奉公義務)を果たせ、ということになる。さらに彼らは、憲法に「緊急事態条項」を盛り込み、国民の不満が高まってきたときは、「緊急事態」を宣言することによって基本的人権を全面的に停止し、独裁体制を敷くことができるようにしようとしている。いみじくも、第一次安倍内閣の法務大臣であった長勢甚遠氏は、安倍首相が会長を務める創生「日本」の東京研修会(平成24年5月10日)でつぎのように言っている。(これは以前にも紹介した)

「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさないと本当の自主憲法にはならないんですよ!」

 稲田朋美 元防衛大臣も、「衆議院議員稲田朋美さんと道義大国を目指す会」(平成24年4月16日)でつぎのように発言している。(この会にも、安倍総理大臣をはじめ、自民党の主だった人たちが参加している)

「国民の生活が第一なんて政治は、私は間違っていると思います」

 また、稲田 元防衛大臣は、生長の家の教祖、谷口雅春氏のことばを引用し「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事、これがずっと自分の生き方の根本だ」とも言っている。

 彼らは、憲法によって、国民を「彼らの考える国民のあり方」の枠内に閉じ込めたいのだろう。道徳教育をうるさく言うのも同じことだと思われる。道徳についても国民が守るものであって、自分たちには関係がないもののようである。自分たちにとって都合の悪いものは隠し、廃棄し、改ざんするのは道徳的に正しいのか、自分たちの仲間だけを優遇し、罪を犯しても罪を問われなくすることは道徳的に正しいのか、そんな疑問は彼らの頭には浮かばないようだ。彼らが、教育勅語を引っ張り出すのも、それが、彼らにとって都合の良い「国民のあり方」を規定しているからだろう。

* 教育勅語は、この国をつくり、未来永劫続くとされる天皇家を守るための国民のあり方を書いたものであり、敗戦後の1948年6月に衆参両院でその排除および失効確認が決議されている。それを、下村博文氏(発言当時は文部科学大臣)は、「教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれており、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられる」と言う。いまの文部科学大臣も「現代風にアレンジした形で、今の道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている部分がある」と言う。それならば、つぎのような山口組の5か条の綱領(定例会などの行事の際に唱和される)についても「山口組の5か条の綱領の中には今日でも通用するような内容も含まれており、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられる」と言えるはずだ。それが言えないとすれば、なぜ言えないのか考えるべきだ。

<山口組の5か条の綱領>
一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。
一、長幼の序を弁(わきま)え礼に依って終始す。
一、世に処するに己の節を守り譏(そしり)を招かず。
一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。

 こんな彼らに「国民のあり方」や「道徳」など考えてほしくない。「国のあり方」としての「国防」もしかりである。彼らは中国や北朝鮮の脅威を言い立て、国防、国防とうるさく言うが、どこまで真剣に国防のことを考えているのか疑わしい。イージスアショアのような迎撃ミサイルは、実際の戦争では、いつ、何機飛んでくるかわからないミサイルに対して、その効果は疑問視されている。「飛んでくるピストルの弾を別のピストルの弾で撃ち落とすようなものである」とも言われるが、中距離弾道ミサイルの速さは秒速2km~5kmで、音の速さ(約340m/秒)の6倍から15倍にもなる。銃弾の速さは、音の速さの1.2倍からせいぜい2倍なので、銃弾とは比較にならない速さである。つまり、たった1機が飛んできても、それを撃ち落とすのは非常に難しいということである。同時に何機も飛んできたらもうお手上げだろう。

 庶民の税金を引き上げ、年金の支給年齢をどんどん引き上げなければならないような、財政が逼迫している中、そのようなものに6000億円以上をかけるのである。もし、本当に国防を考えるなら、まず必要なことは、全国各地に設置されている原子力発電所の処置だろう。仮にそんなことが可能だとして、ミサイル攻撃に耐えられるものにすることだろう。2、3ヶ所の原発が破壊されたら、放射性物質が広範な地域にばらまかれ、居住も、生産活動もできなくなり、大量の原発難民が生まれる。日本は戦争どころではなくなることが目に見えている。福島原発の事故がそれを証明し、誰の目にも明らかにした。それにもかかわらず、彼らは原発依存を改めようとはしない。これで彼らが真剣に国防を考えているのだとすれば、その思考力を疑わざるを得ない。国防と原発が相反するものであることは、いまや小学生でもわかる。

 現実の問題として、ミサイル攻撃に耐えられる原発などありうるのだろうか。地中深くに原発を作るのか。そのコストはどれほどかかるのか。そこまでのコストをかけて原発を作る必要はあるのか。およそ、非現実的である。(そういう彼らに限って、平和主義など非現実的で、平和ボケした連中のたわごとなどと揶揄する)福島の原発でさえ、いまだに最終処理のめどがたっていない。先日は、浄化処理をしたはずの汚染水から、基準値の2万倍を超える放射性物質が検出されたことがわかった。浄化されたはずの汚染水約89万トンのうち、8割超にあたる約75万トンが基準値を上回っており、再び処理することになれば、追加の費用や年単位の時間がかかるのは必至だとのこと。

 最も現実的な対応は、戦争をしないことである。特に近隣諸国との友好関係をしっかりと築き、人、モノの交流、流通を盛んにしてゆくことである。全人類を何度も全滅させることができる量の核兵器を持つ国と戦って勝つ方法を考えるより、はるかに現実的である。仮に戦争に勝ったとして、そんな戦争の後で、人がまともに生活できるような環境を取り戻せるのだろうか。アメリカから大量の兵器を買い込んで、軍需産業に巨大な利益を与える一方、財政を逼迫させ、国民に我慢を強いるより、そのお金で社会保障を充実させ、「ゆりかごから墓場まで」を実現することの方が、ずっと国民の全体の幸福につながるだろう。長い平和の中で、平和ボケしてしまった人たちは、戦争というものがどれほど悲惨であり、非道なことが行なわれるものかを理解できず、この国を、また戦争ができる国に変えようとしているかに見える。

 こんな彼らが描く「国民のあり方」とはいったいどんなものになるのだろう。不平不満を言わず、賃金が安くても一所懸命働き、日本という国は過去に過ちなど犯したことがないというお話を信じ、彼らが戦争を始めたときは率先して戦地に行き、会ったこともなく、恨みなどまったくない人を敵だから殺せと言われて殺し、自分が殺されたら靖国神社に入れてもらえることをありがたく思うような国民であろう。一方、働けない者、戦地で戦えない者、子供を作れない者は、国の役に立てない者であり、他の模範的な国民の邪魔にならないよう、手間をかけさせないよう、自己責任でひっそりと生きるという自覚を持った国民であろう。これが彼らが理想とする「国民のあり方」であると想像できる。勝手に想像したものではなく、日頃の彼らの言動から結論付けられるものである。うそだと思うなら、政府に不平不満を言ってみればいい、もっと賃金を上げろと叫んでみればいい、戦争反対を叫んでみればいい、社会的弱者、少数者の生きる権利を保障しろと言ってみればいい、関東大震災ではデマにより朝鮮人が虐殺されたとか、南京での虐殺があったとか、強制的に従軍慰安婦にさせられた人たちがいたとか言って、この国の過ちを反省してみればいい。そうすれば、たちまち、彼らの応援団から、「非国民」「国賊」「売国奴」「反日分子」「中国、北朝鮮の手先」などとあらゆる悪口雑言を浴びせられ、バッシングを受けるだろう。

 そんな彼らを多くの国民が「他の内閣より良さそうだから」と、支持しているのがいまの日本である。悪い夢を見ているようだ。なにかの冗談であってほしいが、現実である。しかし、国民がそれほどバカであるはずはない。「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさないと本当の自主憲法にはならないんですよ!」「国民の生活が第一なんて政治は、私は間違ってると思います」「“戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事”これがずっと自分の生き方の根本だ」と言い放つような人たちを支持するはずがない。「画一的」を「がいちてき」(自民党の部会で)、「云々」を「でんでん」(国会答弁で)、「背後」を「せいご」(国連総会の演説で)と読むような知的レベルの人が彼らの代表として総理大臣という地位に就き、教育改革を叫ぶことなど認めるはずがない。だとすれば、どうしてこんなことになるのだろう。

 かつて、地球規模の環境汚染、温暖化を警告する『不都合な真実』という映画があったが、日本では、安倍内閣の「不都合な真実」が、NHKをはじめとするマスメディアによって隠されているのも一つの理由かもしれない。つまり、国民の多くが、上述のような安倍内閣の実態を知らず、テレビでよく見かける人だから、なんとなく「ほかの内閣より良さそう」となってしまうのではないだろうか。

 映像から得る情報は、文字から得る情報より圧倒的に得やすい。文字から情報を得ようとすれば、自ら本や新聞を買って、あるいは借りて、文字を読むという行為を能動的にしなければならない。特にまとまった量の文章を読むには、一定の訓練も必要である。それだけエネルギーや意志が必要だ。一方、映像やそれに伴う音声は、受動的な態度であっても、目から耳から入ってくる。あまりエネルギーや意志は必要がない。だから、能動的に安倍内閣の実態を知ろうとしないと、テレビから流れてくる範囲でしか知ることができず、そして、そのテレビが官邸や企業から圧力を受け、(高市早苗総務相(当時)は、彼らから見て偏っていると判断したときは、停波を命ずることもあると脅した。NHKに至ってはその人事を官邸に握られている)その結果、安倍内閣に忖度し、安倍内閣にとって不都合な真実を伝えなくなっているとすれば、安倍内閣の実態を知ることなどできない。

 文字からの情報源の一つである新聞については、まるで自民党の機関紙であるかのように成り下がっているものもいくつかあるが、彼らから見て、まだ十分にはコントロールできていないようである。麻生副総理はつぎのようにその不満を述べている。自民支持が高いのは10~30代だとして、「一番新聞を読まない世代だ。新聞読まない人は、全部自民党なんだ」「新聞とるのに協力なんかしない方がいい。新聞販売店の人には悪いが、つくづくそう思った」。つまり、まだ、知ろうという意志さえあれば、ある程度知ることは可能だということになる。

 しかし、新聞を読まない人がどんどん増えている。麻生副総理も言っているように、若い世代ほど読まない。ネット上の玉石混交のつぶやき(玉をよりわける能力があればいいけど)とテレビからしか情報が入ってこない。そのレベルの情報では、たとえば、アベノミクスは成果を上げていることになっている。しかし、実質賃金は下がり、GDPの伸び率は先進国中最低(中国や韓国に劣ることはもちろんである)になってしまったし、非正規雇用が増え、労働者個々人の雇用は不安定になり、残業代を払わなくても超過勤務をさせることができる法律も通過した。一方、集団的自衛権の行使が容認され、日本が直接攻撃を受けなくても、よその国(アメリカ)が戦争を始めれば、自衛隊を現地に派兵し、戦わせることができるようになった。日本は、戦後70年以上、戦死者を出すことなくいままでやってきたが、これからはそうはゆかなくなる。実際の戦場に駆り出され、死ぬことにもなるとすれば、自衛隊への志願者が減ることになる。(もうすでに減ってきているという話も聞く)ということは、派兵のために徴兵制が敷かれるかもしれない。そうなれば、自民党支持者が多いという10代から30代は、真っ先に徴兵されることになるのだ。

 憲法改定の国民投票の実施が決まれば、改憲派は大量のテレビCMを始めるだろう。先ごろ、放送局は商機だと見て、儲けのため、あるいは、安倍内閣を忖度して、その量的規制をしないことを表明した。改憲派は大量の資金を投入して、電通(日本最大の広告代理店)を抱え込み、さまざまな表現手段を使って「印象操作」をし、改憲の必要性を訴えるだろう。(安倍首相は国会で自分が野党から追及されると「印象操作」だとして怒る)改憲否定派には、彼らのように潤沢な資金はないので、CM合戦ではかなわないだろう。だから、知らない派、なんとなく「他の内閣より良さそうだから」派は、改憲に賛成してしまう可能性は高い。

 つまり、知らない。知らないのに、なんとなく「他の内閣より良さそうだから」と現内閣を支持している。それでいいのだろうか。テレビや新聞に問題はあっても、知ろうという意志があれば、知ることはできる。見ようとすれば見える。それなのに、それをしない結果として悲惨な目に遭うのは、それこそ自己責任というものだろう。しかし、悲惨なことにならないよう懸命に努力している人たちをも巻き込んでしまうのだから、自己責任では済まされない。その人たちの分の責任も取るべきである。いまこの状況の中で、この国の政治を行なっているものたち、権力者たちについて知らないこと、知ろうともしないことは罪である。それこそ、国民としての義務を放棄していることになる。

憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。……

* 第4次安倍内閣の閣僚19人中、14人が「日本会議国会議員懇談会」に所属し、全員が「神道政治連盟」に所属している。安倍首相は両方に所属している。共に、理想とする「国のあり方」を掲げ、その実現を目指す宗教的政治団体であり、現在の安倍政権の政策に対し強い影響力を持っている。政府がこれからどんな国を目指そうとしているのかは、国民にとって大変重要な問題である。それにもかかわらず、このような事実がほとんど報道されないということは大きな問題である。国民は、「日本会議」や「神道政治連盟」がどういう団体であるのか、どういう国を目指しているのかということを是非知るべきだと思う。知った上で、その思想に賛同する人は続けて安倍政権を支持すればよい。賛同できない人は、この内閣の危険性、異常性を認識してほしいものだ。



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