2月23日のブログで東電の責任について書いたが、そのとき、「僕のお父さんは東電の社員です」という本について、書評だけを見て批判めいたことを書いた。書評だけを見てという点で、後ろめたい気持ちがずっと残っていたので、最近、その本を全部読んでみた。
「僕のお父さんは東電の社員です」という小学生(ゆうだい君という仮名で扱われている)の手紙は、毎日小学生新聞への投書であり、それは、同じく毎日小学生新聞のコラムである「NEWSの窓」に掲載された村上龍行氏(元毎日新聞論説委員)の記事に対する抗議のかたちで書かれたものだった。
ゆうだい君は、「(村上龍行氏の記事の)最後の方に『危険もある原子力発電や、生活に欠かせない電気の供給をまかせていたことが、本当はとても危険なことだったのかもしれない』と書いてありました。そこが、無責任なのです」と述べて、その記事が無責任だと非難している。ただし、この本の著者である森達也氏が、村上龍行氏の記事のこの部分は、ゆうだい君と同じことを言っているのだと、ゆうだい君の読み間違いを指摘している。村上龍行氏が述べているのは、まかせたのは「みんな」であり、まかせられたのは「東電」であり、「本当はとても危険なことだったのかもしれない」と反省しているのは、まかせた側としての自分自身であるということだ。
読み間違いは別として、この本で提起している問題は、東電や、その他の事故を起こした側だけを責めてそれでいいのかということである。何か社会的に大きな問題が起き、その原因を作り出した当事者に非難の矛先が向けられているときによくある典型的な問いかけである。この本では、冒頭に、ゆうだい君の手紙と「NEWSの窓」の記事が紹介され、その後に、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人から、ゆうだい君の手紙に対して寄せられた賛成意見、反対意見が掲載されている。最後に、森達也氏の考えが「僕たちのあやまちを知ったあなたたちへのお願い」として述べられている。「僕たち」とは「おとなたちみんな」であり、あなたたちとは「ゆうだい君に代表される子供たち」である。
森達也氏は、現在の社会での電気の重要性、日本で原子力発電が行なわれるようになった経緯、その危険性、原子力発電の利権、人間の本性、集団、組織、群の問題などを説明し、いろいろと適確な指摘をしていながら、やはり責任の所在の一般化をしている。結果として、最も大きな問題点が、重大な過ちを犯した人たちとともにぼやけてしまうことになっている。原子力発電について、その危険性を早くから指摘し、警鐘を鳴らし続けてきた人たちがいること、そして、それを無視してお金のために建設を推し進めてきた人たちがいること、そのことがぼやけてしまうことになっている。
たとえば、4年くらい前、カタログハウスの学校というところで、地震学者の茂木清夫氏(東京大学名誉教授、地震予知連絡会委員、会長、『想定東海地震』予知のための判定会委員、会長などを経験)と小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)の話を聞いたことがある。茂木清夫氏はつぎのように述べて、日本に原子力発電所をつくることの危険性を指摘していた。アメリカやヨーロッパでは地震が少ないし、原子力発電所は、地震のない場所につくられている。しかし、日本は環太平洋地震帯に属し、M8クラスの地震が繰り返して起きている。南関東から四国までの太平洋沿岸は日本の中でも大地震が繰り返し起きており、ここに原発(浜岡原子力発電所)をつくることは常識外のことであるはずだ。
小出裕章氏も、もし浜岡でチェルノブイリ級の事故が起きたらという想定で、まさに福島でいま起きていることを、既にその時点で述べていた。また、世界最大の原子力発電所の保有会社(17基)である東京電力は、原子力発電所の安全をあれほど喧伝しながら、たったの1基も、その電力供給地域内(関東地方)には設置していないことの矛盾を指摘していた。なぜ東京湾に原子力発電所をつくらないのかということである。
このように、早くから原子力発電所の危険性を訴え続けている人たちがいる一方で、1970年に唯一、東海地域がM8級地震の特定地域に指定されたにもかかわらず、同じ年に、東海地域の真ん中に浜岡原子力発電所の建設許可申請を出した人たちがいて、それをたった7ヶ月後に許可した人たちがいて、しかも、彼らは、申請や許可にあたって、当時、東海地域の地震について日本で最も深く研究していた茂木清夫氏たちに、公式にも非公式にも意見を求めなかった。その後も、つぎつぎと申請が繰り返され、浜岡には5号機まで建設されてしまった。これも、先のカタログハウスの学校で聞いたことだ。
2月23日のブログでも述べたが、朝日新聞のコラム「プロメテウスの罠」でも、東電の社員が冷却用海水漏れ事故を見て、「津波が来たら一発で炉心溶融じゃないですか」と上司に聞いたところ、「そうなんだよ。でも安全審査で津波まで想定するのはタブー視されているんだ」という答えが返ってきたとのこと。津波を想定すると膨大なお金が要る、だから無視するという人たちがいたということだ。
福島の事故の検証が進行中であり、収拾まで程遠いという段階で、大飯原子力発電所の再稼働について、再稼働ができるような許可基準を作って、できるだけ早いうちに許可したいと考えている人たちもいる。今日の新聞では、政府が大飯原子力発電所の再稼働を妥当と判断したと出ていた。津波に備えての防潮堤の建設などの安全対策がまだ実施されていないにもかかわらず、つまり、安全対策がまだ整っていない段階で再稼働を認めているところがポイントだ。森達也氏も指摘しているが、電力の需給バランスから見て原子力発電所が必須であるというのは、原子力発電所推進派のプロパガンダだという見方もある。
こういう人たちは、今回の事故について責任など感じておらず、たとえ、森達也氏が反省を呼びかけたとしても応じないし、これからの日本を担う子供たちに謝罪しようと呼びかけても無視するだろう。まさに、森達也氏が言う「もしかしたら自分にも責任があるのではとか、絶対に考えない人たち」ではないか。(森達也氏はそういう人たちをどうすればよいと考えているのだろう?)
問題は、そういう人たちが大きな力を持ち、国の原子力政策に大きな影響を与えているという現実である。そういう人たちと、それはおかしいのではないかと言っている人たちとを一括りにすべきではないと思う。
二度とこのようなことにならないように、どこに重大な過ちがあったのか、この事故に至る過程のそれぞれの節目で、決定権を持ち、決定したのは誰か、なぜそういう決定をしたのか、それらを究明しなければならない段階で、誰が間違っているとか誰が正しいとかで犯人探しをするな、社会の仕組みがそういう人たちをつくり出したのだから「みんな」に責任があるのだ、というような論法で責任の所在をあいまいにすることには賛成できない。
森達也氏が、アウシュビッツのルドルフ・ヘスやチッソ水俣工場の責任者に同情を示すことに違和感を覚える。彼らの人柄がどうであったか、どう思っていたかは別の問題であり、起こった重大な結果に対しは責任をとらせる必要があったはずだ。福島の事故は現在進行中である。しかも、その責任の所在があいまいにされようとしている。そんな最中に「みんなにも責任がある」という問題提起をすべきではない。
蛇足ながら言っておくと、「みんな」「おとな」「こども」「男」「女」「日本人」「外国人」「何々人」などなど、このような一般化が間違っていると言っているのではない。当然、これが役に立つことは多い。しかし、不用意に一括りにすべきではないと言っている。一括りにするといことは、括るもののそれぞれの中にある特定の性質に着目し、他の性質を無視するということである。しかし、当面の問題において、無視すべきではない性質を無視してしまうようなことはしてはならないということだ。たとえば、大きくて重いものを持ち上げるので「おとな」は集まって下さいと言うとき、腰痛の持病がある人、その他の理由で力仕事ができない人などは、きちんと区別して除外しなければならないということだ。
だから、こういうことも言える。「東電の社員」という括り方をして、その全員を非難するのは間違っている。東電の社員にも、社員としての責任を感じ、事故後の処理や、再発防止のために懸命に努力している人がいるはずであり、一方で、責任などまったく感じていない人もいるはずである。前者を避難すべきではないかもしれないが、後者は十分非難に値する。ゆうだい君のお父さんが前者であることを願うが。
「僕のお父さんは東電の社員です」という小学生(ゆうだい君という仮名で扱われている)の手紙は、毎日小学生新聞への投書であり、それは、同じく毎日小学生新聞のコラムである「NEWSの窓」に掲載された村上龍行氏(元毎日新聞論説委員)の記事に対する抗議のかたちで書かれたものだった。
ゆうだい君は、「(村上龍行氏の記事の)最後の方に『危険もある原子力発電や、生活に欠かせない電気の供給をまかせていたことが、本当はとても危険なことだったのかもしれない』と書いてありました。そこが、無責任なのです」と述べて、その記事が無責任だと非難している。ただし、この本の著者である森達也氏が、村上龍行氏の記事のこの部分は、ゆうだい君と同じことを言っているのだと、ゆうだい君の読み間違いを指摘している。村上龍行氏が述べているのは、まかせたのは「みんな」であり、まかせられたのは「東電」であり、「本当はとても危険なことだったのかもしれない」と反省しているのは、まかせた側としての自分自身であるということだ。
読み間違いは別として、この本で提起している問題は、東電や、その他の事故を起こした側だけを責めてそれでいいのかということである。何か社会的に大きな問題が起き、その原因を作り出した当事者に非難の矛先が向けられているときによくある典型的な問いかけである。この本では、冒頭に、ゆうだい君の手紙と「NEWSの窓」の記事が紹介され、その後に、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人から、ゆうだい君の手紙に対して寄せられた賛成意見、反対意見が掲載されている。最後に、森達也氏の考えが「僕たちのあやまちを知ったあなたたちへのお願い」として述べられている。「僕たち」とは「おとなたちみんな」であり、あなたたちとは「ゆうだい君に代表される子供たち」である。
森達也氏は、現在の社会での電気の重要性、日本で原子力発電が行なわれるようになった経緯、その危険性、原子力発電の利権、人間の本性、集団、組織、群の問題などを説明し、いろいろと適確な指摘をしていながら、やはり責任の所在の一般化をしている。結果として、最も大きな問題点が、重大な過ちを犯した人たちとともにぼやけてしまうことになっている。原子力発電について、その危険性を早くから指摘し、警鐘を鳴らし続けてきた人たちがいること、そして、それを無視してお金のために建設を推し進めてきた人たちがいること、そのことがぼやけてしまうことになっている。
たとえば、4年くらい前、カタログハウスの学校というところで、地震学者の茂木清夫氏(東京大学名誉教授、地震予知連絡会委員、会長、『想定東海地震』予知のための判定会委員、会長などを経験)と小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)の話を聞いたことがある。茂木清夫氏はつぎのように述べて、日本に原子力発電所をつくることの危険性を指摘していた。アメリカやヨーロッパでは地震が少ないし、原子力発電所は、地震のない場所につくられている。しかし、日本は環太平洋地震帯に属し、M8クラスの地震が繰り返して起きている。南関東から四国までの太平洋沿岸は日本の中でも大地震が繰り返し起きており、ここに原発(浜岡原子力発電所)をつくることは常識外のことであるはずだ。
小出裕章氏も、もし浜岡でチェルノブイリ級の事故が起きたらという想定で、まさに福島でいま起きていることを、既にその時点で述べていた。また、世界最大の原子力発電所の保有会社(17基)である東京電力は、原子力発電所の安全をあれほど喧伝しながら、たったの1基も、その電力供給地域内(関東地方)には設置していないことの矛盾を指摘していた。なぜ東京湾に原子力発電所をつくらないのかということである。
このように、早くから原子力発電所の危険性を訴え続けている人たちがいる一方で、1970年に唯一、東海地域がM8級地震の特定地域に指定されたにもかかわらず、同じ年に、東海地域の真ん中に浜岡原子力発電所の建設許可申請を出した人たちがいて、それをたった7ヶ月後に許可した人たちがいて、しかも、彼らは、申請や許可にあたって、当時、東海地域の地震について日本で最も深く研究していた茂木清夫氏たちに、公式にも非公式にも意見を求めなかった。その後も、つぎつぎと申請が繰り返され、浜岡には5号機まで建設されてしまった。これも、先のカタログハウスの学校で聞いたことだ。
2月23日のブログでも述べたが、朝日新聞のコラム「プロメテウスの罠」でも、東電の社員が冷却用海水漏れ事故を見て、「津波が来たら一発で炉心溶融じゃないですか」と上司に聞いたところ、「そうなんだよ。でも安全審査で津波まで想定するのはタブー視されているんだ」という答えが返ってきたとのこと。津波を想定すると膨大なお金が要る、だから無視するという人たちがいたということだ。
福島の事故の検証が進行中であり、収拾まで程遠いという段階で、大飯原子力発電所の再稼働について、再稼働ができるような許可基準を作って、できるだけ早いうちに許可したいと考えている人たちもいる。今日の新聞では、政府が大飯原子力発電所の再稼働を妥当と判断したと出ていた。津波に備えての防潮堤の建設などの安全対策がまだ実施されていないにもかかわらず、つまり、安全対策がまだ整っていない段階で再稼働を認めているところがポイントだ。森達也氏も指摘しているが、電力の需給バランスから見て原子力発電所が必須であるというのは、原子力発電所推進派のプロパガンダだという見方もある。
こういう人たちは、今回の事故について責任など感じておらず、たとえ、森達也氏が反省を呼びかけたとしても応じないし、これからの日本を担う子供たちに謝罪しようと呼びかけても無視するだろう。まさに、森達也氏が言う「もしかしたら自分にも責任があるのではとか、絶対に考えない人たち」ではないか。(森達也氏はそういう人たちをどうすればよいと考えているのだろう?)
問題は、そういう人たちが大きな力を持ち、国の原子力政策に大きな影響を与えているという現実である。そういう人たちと、それはおかしいのではないかと言っている人たちとを一括りにすべきではないと思う。
二度とこのようなことにならないように、どこに重大な過ちがあったのか、この事故に至る過程のそれぞれの節目で、決定権を持ち、決定したのは誰か、なぜそういう決定をしたのか、それらを究明しなければならない段階で、誰が間違っているとか誰が正しいとかで犯人探しをするな、社会の仕組みがそういう人たちをつくり出したのだから「みんな」に責任があるのだ、というような論法で責任の所在をあいまいにすることには賛成できない。
森達也氏が、アウシュビッツのルドルフ・ヘスやチッソ水俣工場の責任者に同情を示すことに違和感を覚える。彼らの人柄がどうであったか、どう思っていたかは別の問題であり、起こった重大な結果に対しは責任をとらせる必要があったはずだ。福島の事故は現在進行中である。しかも、その責任の所在があいまいにされようとしている。そんな最中に「みんなにも責任がある」という問題提起をすべきではない。
蛇足ながら言っておくと、「みんな」「おとな」「こども」「男」「女」「日本人」「外国人」「何々人」などなど、このような一般化が間違っていると言っているのではない。当然、これが役に立つことは多い。しかし、不用意に一括りにすべきではないと言っている。一括りにするといことは、括るもののそれぞれの中にある特定の性質に着目し、他の性質を無視するということである。しかし、当面の問題において、無視すべきではない性質を無視してしまうようなことはしてはならないということだ。たとえば、大きくて重いものを持ち上げるので「おとな」は集まって下さいと言うとき、腰痛の持病がある人、その他の理由で力仕事ができない人などは、きちんと区別して除外しなければならないということだ。
だから、こういうことも言える。「東電の社員」という括り方をして、その全員を非難するのは間違っている。東電の社員にも、社員としての責任を感じ、事故後の処理や、再発防止のために懸命に努力している人がいるはずであり、一方で、責任などまったく感じていない人もいるはずである。前者を避難すべきではないかもしれないが、後者は十分非難に値する。ゆうだい君のお父さんが前者であることを願うが。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます