朝日新聞4月27日朝刊の論壇時評に、小熊英二さんが大変重要な指摘をしていた。「原発の再稼働の是非が議論されている。そこで欠けがちなのは、原発のコストは社会のリスク感によって変化するという視点である」というものだ。「原子力発電のコストは、実は大部分が安全コストである」から、「人々が安全やリスクに敏感になり、人権意識が浸透すれば高くなる」とのこと。外国に頼っているウラニューム鉱石の採掘や精製についても同じだ。その関係国の国民の安全意識、人権意識が高まるにつれ、そのコストは上昇する。もし下がるようなことがあり得るとすれば、「人々のリスク感、安全意識、人権意識が低下し、専門家や政府の権威が強まった場合だけ」ということになる。つまり、強権国家になった場合ということになる。「経済停滞と省エネ技術の進歩で、電力需要が低下し」、「電力自由化の波と、福島第一原発事故がやってき」て「もはや原発には、どう考えても将来性はない」にもかかわらず、再稼働をするということは、「『フクシマ』後のリスク感とコストに照らせば、展望のない事業にさらに金をつぎ込む無策にすぎず、経済合理性などない。その金が国民の税金や預金であるに至っては言語道断である」と厳しい。
国民にしてみれば欲しいのは電力であり、発電の方法は本来関係がないことである。ただし、発電のために大きなリスクなど負いたくないので、危険な方法で発電しないでもらいたい。また、電力があまり高価なものになって欲しくもないので、コストが大きくかかる方法で発電してもらっても困る。福島第一原発の事故で、原子力発電というものが大変危険なものであることが十分にわかった。また、原子力発電のコストは、建設費や稼働費だけで算出されるものではなく、廃棄物処理費、事故の保険金や補償金、立地自治体への補助金や説得コスト、そして安全対策費も含まれるわけで、けっして低いものではない。しかも、小熊英二さんが述べているように、今後さらに上がり続ける可能性が十分に高いとすれば、やはり原子力発電という方法は採るべきではない。なお、一般的に商品は、生産技術の向上によって、その製造コストは低下する。原発のコストはその原則が当てはまらない特殊なものと言える。
本当に原子力発電なしでは電力需要を賄えないのだろうか。そんなことはないと思う。昨年の夏も乗り切ったし、将来的にも、科学、技術の進歩によって、より安全で安価な発電方法が見つけ出され、開発されてゆくと思う。人間はそういう能力を持っているはずだと思う。
小熊英二さんも言っているように、大規模投資をした電力会社、そこに融資をした銀行、電力株を買った保険会社、原子炉製造施設に投資したメーカー、国策として推進してきた責任を問われたくない官庁などは「いまさらやめられない」と考えていると思うが、そういう人たちの都合で原子力発電を続けるなどということは是非やめてもらいたい。
国民にしてみれば欲しいのは電力であり、発電の方法は本来関係がないことである。ただし、発電のために大きなリスクなど負いたくないので、危険な方法で発電しないでもらいたい。また、電力があまり高価なものになって欲しくもないので、コストが大きくかかる方法で発電してもらっても困る。福島第一原発の事故で、原子力発電というものが大変危険なものであることが十分にわかった。また、原子力発電のコストは、建設費や稼働費だけで算出されるものではなく、廃棄物処理費、事故の保険金や補償金、立地自治体への補助金や説得コスト、そして安全対策費も含まれるわけで、けっして低いものではない。しかも、小熊英二さんが述べているように、今後さらに上がり続ける可能性が十分に高いとすれば、やはり原子力発電という方法は採るべきではない。なお、一般的に商品は、生産技術の向上によって、その製造コストは低下する。原発のコストはその原則が当てはまらない特殊なものと言える。
本当に原子力発電なしでは電力需要を賄えないのだろうか。そんなことはないと思う。昨年の夏も乗り切ったし、将来的にも、科学、技術の進歩によって、より安全で安価な発電方法が見つけ出され、開発されてゆくと思う。人間はそういう能力を持っているはずだと思う。
小熊英二さんも言っているように、大規模投資をした電力会社、そこに融資をした銀行、電力株を買った保険会社、原子炉製造施設に投資したメーカー、国策として推進してきた責任を問われたくない官庁などは「いまさらやめられない」と考えていると思うが、そういう人たちの都合で原子力発電を続けるなどということは是非やめてもらいたい。
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