「教卓のこちら側」と「あちら側」の間には乗り越えがたい知的位階差があるという信憑が成立する限り、そこでは教育が機能する。これが内田樹さんのブログでの主張だったと思う。「先生はえらいのだ」ということが社会的に合意されていれば、教壇の上に誰が立とうが教育は成り立つということだ。
でも内田さんは言う。「私たちは大学に進学した後に「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、すこしも人間的に卓越しているわけではない」という事実を意地悪く暴露して、教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。私たちが指摘したのは『ほんとうのこと』だったのだが、『言うべきではなかったこと』だった」「『教師という仕事は実は誰でもできるのだ』ということは『とりあえず秘密にしておく』ということも含めて教育は制度設計されているからである」と。
そうすると、教師がどれほど「教育の奇跡」を信じたとしても、もう暴露されてしまった、秘密がバレてしまったとなると、「先生、もうバレてるよ」となって、「教育の奇跡は息絶える」しかないということにならないか。種明かしされたマジックをもう一度見ても、不思議でも、おもしろくもなくなってしまう。
しかし、こう考えることもできるのではないか。「『教わるもの』が『教えるもの』を知識において技芸において凌駕することが日常的に起きるという事実のうちにある。『出力が入力を超える』」という「教育の奇跡」は、教育制度の側にあるのではなく、教わる側、学ぶ側、つまり、人そのものにあるのではないか。
前回も書いたように、人は学ぶ意志さえあれば、何からでも学ぶ。わけがわからなくても、そこから自分にとって役立つ何かを引き出し、学ぶ。音楽から、絵画から、彫刻から、書から、小説から、映画から、演劇から、スポーツから、武道から、華道から、茶道から、座禅から、動物から、植物から、無生物から、あらゆる社会現象から、自然現象から学ぶのが人ではないか。あらゆるものが師となり得、その師の意図や意図の有無には関係がない。だから、「教育の奇跡」は息絶えることはないと言えないか。教育において大切なのは、学ぶきっかけとして、何をどのように与えるかということになるのかもしれない。
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