明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史読解アイディア集(1)古代における時制の表現

2022-01-05 19:33:21 | 歴史・旅行

今日の題材は、古代における「時間の感覚」である。

一般的に、ある事が「いつ起こったか」を他人に説明するのには、もしカレンダーが世の中に無いとすれば、「私が何歳の頃どうこう〜」と言うのが一番素直である。例えば「俺が二十歳の頃(つまり計算上、今から35年前)」と言って、相手に大体の時間の間隔を想像してもらう方法だ。しかし皆さんは既に西暦2022年のカレンダーを持っているから、「〇〇年」と絶対年代表記で説明することが当たり前である。言わば「西暦何年」というのが、出来事の発生した年を特定する「最も標準的な説明方法」なのだ。これは誰もが西暦を時間の基準にしていて、それから自分の年齢が「いくつの時」だったかを逆算し、「時間の経過を実感」している現代だからこそ出来ることなのである。これは人間が時間を実感するには最終的に「自分が幾つの時」という感覚にまで変換する必要があるので、まずコミュニケーションの道具として一旦「共通の指標である絶対年代表記」で表した後、それを聞いてから改めて「自分の時間に変換する」ことで初めて理解できるのだと私は考えた。つまり、「二段階での伝達」というのが、時間の管理の基本方法である。

では、カレンダーなどが無かった古代の日本では、どういう風に皆んなが共通の時間認識をしてたかというと、「天皇の時間」を皆んなの共通の時間にしていたのではないか、というアイディアが浮かんできた。これが私の考えついた「古代日本の時制」である。

例えばあなたが7世紀、舒明天皇の治世下に生活していたとしよう。聖徳太子が亡くなったのは推古天皇30年であるから、もし現在が舒明天皇の治世3年だとすると、「3年」足す推古天皇の治世の残り「7年」を足して(推古天皇は36年に崩御)、現在から「10年前に起きたこと」だと計算できるわけだ。

これを現代人にも分かりやすくいうと、舒明天皇の息子の天智天皇が聖徳太子の葬儀の説明をする場合、「聖ちゃんが亡くなったのは、推古の大叔母様が天下を治めていた30年目の時だった」という時間感覚である。自分の祖父母や曽祖父母の時代の事柄を言うには、このように例えば「おばあちゃんが〇〇してた頃」云々というのが、生活に密着した「素直」な説明の方法である。天皇家にとっては自分の祖父母の歴史つまり、あくまで個人的な時間なのだが、それを「全国民が共有する時間の尺度」として使っていたのが古代であったと思う。時間感覚は現代の絶対年代表記方式では無く、あくまで「人間の肌感覚」で管理していたのである。要するに人々は「あれは今から何年前」と考える計算の基準として、「あれは誰々天皇の何年目」という風に捉えていたと言える。

ところが時間を量るのに天皇の何年目と言う方法を取っていたのが文武天皇の701年に初めて中国風の「大宝」という年号を建て、それから時間を年号で管理するように変わったのだ(これについては九州王朝独自の年号というのが知られていて、別途私のブログを参照していただければ幸いです)。しかし年号を何か事件がある度に「5、6年ごと」に取っ替え引っ替えするようになっていったので、とても時間を計る基準としては「役には立たなく」なっていた。それで、時間を計算するのは古くから行っていた「十干十二支の60年周期法」を継続使用して、過去の出来事を指し示すのは「天皇の治世」で行うというハイブリッド方式になって行った、というのが実態だと思う。まあ、年号という新しい道具を中国から仕入れて使おうと苦心したが、結局国民は相変わらず「干支と天皇」で時間を管理していたと言える。

だが、庶民が「時間を管理」しなきゃいけないと感じるのは、せいぜい50年から60年まで。つい最近のあの戦争が終わるまでは、人の平均寿命は「50年」と言われていた時代である。歴史編纂局の役人でもない限り、それ以上の遠い昔のことなど、「むかしむかし」で済んでいたのではないか。その点、干支というのは60年で一周するから、ある意味「人間の生活に即した方法」と言える。現代人にとって干支で時間を管理するのは大変な様に感じるが、昔は年だけでなく1日の内の「何時」というのを表すのにも干支を使っていた。現代の感覚からいえば何とももどかしい仕組みであるが、それで社会が動いているのだから仕方がない。ちなみに日本書紀などの国家の正史も「〇〇天皇何年と庚寅年」という風に併記しており、何月何日と言う代わりに「壬辰月の甲子日」などと月日までも干支で記されているから、当時はそれほど面倒だとは感じていなかったのだと思う。まあ、時間管理の基準としての正規の表記法だから当然である。

いずれにしても当時の民衆の感覚としては、「あれは何時のことだっけ?」と質問した場合には、それが2、3年前の出来事なら「去年とか一昨年または一昨々年」とかの通常の呼び方で言っていただろう。それが、もう少し前の場合は単に「だいぶ前」とかで済ましていたのではないだろうか。10年とか20年とか「時間の長さを計る感覚」は、まだそれ程庶民の間には「行き渡ってはいなかった」と私は考えている。昔のことを「推古天皇の15年」という風に歴史を表記する言い方で表現してはいても、実際に感じる感覚の限界は「あくまで父母の代、祖父母・曽祖父母の代」であり、人間の「一生を基準」とした時間感覚からは、大きく逸脱はしていなかったと思いたい。それが私の思いついた「古代人の時間感覚」である。

ところで現代の日本においては、この時間感覚はどうなっているのかというと、実は明治・大正・昭和・平成というのは「古代人の時間感覚と同じ」方法、つまり〇〇天皇の治世何年という「あの時間感覚」と全く一緒なのである!

まあ私としては(余り納得はしていないが)西暦〇〇年というのが便利だと思っている。但し、現代の出来事を扱う場合は、という限定だ。日本の歴史、それも私の大好きな「飛鳥・奈良時代から平安末期まで」の古代史を扱うには、この天皇の時間感覚を覚えるのが「必須」である。いつの日か、例えば歴史上有名な大事件「乙巳の変」を考える時、私が天智天皇になり代わって「あれは20歳の時」の出来事だったなぁ・・・、などと想像することが出来れば、古代愛好家としては「満点」なのだが。


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