明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

今週の気付き(19)

2019-12-11 15:01:03 | 今日の話題
1、近所の寿司屋が廃業しました
いつもゴルフの練習の帰りに前を通っていた寿司屋だが、ほとんど客が入っていなかった。こんな人通りの少ないところでは無理なんじゃないのかな、と思っていたら案の定、ついに廃業した。ここは6号線から一歩入ったバス通りで、中学生たちの通学路にもなっており、結構通行量もあるのだが皆んな通過するだけで、結局「人が集まる場所」ではないのである。近くには惣菜屋やクリーニング屋、介護施設や歯医者などがパラパラとあり、肉料理店や居酒屋など飲食店も「ちらほら」あるがマンションもあったりして、どちらかというと商店街ではなく住宅街の一部である。こんなんじゃ寿司屋もやっていける訳ないか、と納得の結果である。

時々表の植え込みに水やりする店主は50歳台の男であったが、私が引っ越してきて以来というもの、満員になったことがないような閑散とした店を閉めて、何処とも知れず消えていってしまった。いよいよ柏も、寂れていく流れなんだろうな。そういえば、私がたまに行く小学校の近くの古本屋は、まだ潰れないでやっているけど・・・。まあ、寿司屋は生ものを扱うだけに、客が入らないと「途端に経営が行き詰まる」のだろう。それでも細々と営業を続けていたのは、店主の店への愛着なのかも知れない。そろそろ寒さが身にしむ季節がやってくるこの師走にまた一つ、日本経済を回していくべき職場の火が消えた。スーパーのレジ袋を提げたまま廃業した店の真っ暗な室内を覗き込みながら、移ろいゆく人生の悲哀を感じていた私の横を、女子中学生の群れが通り過ぎていく。今年もまた、クリスマスの季節になったんだな・・・と。

2、小学校のあの重たい教科書こそ、電子書籍にすべし
小学校などのランドセルが重いのは、重たい教科書を毎日運んでいるからだというのは今に始まったことではない。それにしてもなんでも電子化する現代で、いつまで「紙の教科書」を使っているんだろうか。サッサと電子化して、どこでも勉強できるようにタブレットなどを持たせたほうが「よっぽど役に立つ」ではないか。そんなことも思いつかないような「お固い旧式頭」で、どうやって柔らかな頭脳の子どもたちを指導できるというのだろうか、というのが私の意見である。そもそも学校こそ、ペーパーレス化するべきだと思うのだが。但し、子供が持つタブレットといっても「子供が電子書籍を読むだけ」とは限らないから、子供の教育上好ましくないコンテンツなどが「わんさか表示される」のを危惧する向きもあるであろう。そこで支給するタブレットには教育機関が認めた「教育適合マーク」の付いているコンテンツしか表示できないように、「制限をつけて」配布するのである。ただ、お硬いものばかりでは逆に不満をつのらせて「あらぬ方向に誘導」させかねないから、ゲームやまんがやスポーツ等も適度に視聴可能枠を与えて、それぞれ「時間制限」をかけると良い。

まあ、市販のタブレットを使えば制限なしだから子供がやろうとすればできてしまうが、そこは家庭の指導で乗り切るしか無いだろう。どんなに止めてもやる者はやるのである。それより技術の進化をいち早く生活の中に反映させる事のほうが、教育になるのではないだろうか。試験なども各自のタブレットに飛ばして、回答も瞬時に「教室のサーバーで回収」すれば手間いらずだ。点数も学校の「教育AI」が採点して、結果を生徒の自宅へ直接送信すれば更に一層、「先生と生徒と親」の三位一体授業が加速するというものである。こういう改革をどんどんしていけば、過労死レベルの「過酷な仕事環境」と言われている「教師の残業時間」もグッと減り、教室もずっと笑顔の溢れる場所になると思うんだけど。それにしても、タブレットを持って学校に行くなんてのは「お洒落」過ぎる。情報社会に生きる子供の「未来形」は、電子媒体を使いこなすことから始まると見た。勿論、人の手で書かれた「書体の美しさ」や、毛筆の文字世界を楽しむことはまた別である。飛行機や車が身近なものとして発達した現代においてさえ、逆に「昔ながらの歩行による登山」が楽しまれているように。要は、何を目的とするか、である。教科書は、知りたい情報を得られればそれで良い。「本を味わう」のとはまた、別であろう。

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