明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

たまに聴くと思わず引き込まれて、その美しさに心が洗われる名曲10選 クラシック編(上)

2016-07-24 21:00:21 | 芸術・読書・外国語
(1)エルガー : 愛の挨拶 op 12
五嶋ミドリの「アンコール」という愛奏曲集に入っている演奏が、私は大好きだ。ゆったり目のテンポと上品で張りのある音色が奏でる、エルガー屈指のメロディーである。この名曲はあちこちで色々な人が「ちょっと弾く」のにピッタリの、軽くて短めのそれ程難しくない便利な曲でもある。よくコマーシャルにも使われる。以前、胃腸薬のCMで「いい〜クスリです」のキャッチコピーとともに流れた「ショパン24のプレリュード第7番」の前例があり、曲を聴くたびに胃腸薬を思い出してトラウマになった事があるので私は反対なのだが、クラシックの名曲をCMに使うのはやめて欲しい、絶対に。曲に何の関係もない商品のイメージが被ってきて、振り払おうとしても耳にこびりついて離れないのである。これ、芸術に対する冒瀆以外の何物でもないと思わないのだろうか。幸い、その後コマーシャルを聞かなくなってだいぶ経つので私のトラウマも消えてきたのは喜ばしい限りだ。エルガーのこの曲は、子供の練習曲にもなっているので「どのようにでも弾けちゃう」のだが、やはり名手の弾く高貴な味わいはまた格別である。いかにも英国風の、爽やかな1日の始まり。もしくは日曜日に教会に行って荘厳なミサに参列する前の、家族同士の楽しい語らいのような「優しい親切」の応答。私はこの曲を聴くと、何故か心が優しくなる。さらに言うならば「その日1日が、楽しさで溢れてくる」名曲である。

(2)モーツァルト : アヴェ・ヴェルム・コルプス
奇跡のハーモニーである。途中でメロディが一段持ち上がって高くなる箇所があり、ここが余人の決して及ぶことのないモーツァルトの天才だけがなし得る「感情の高ぶりの解放」と言っても良いと思う。私は何回聞いても、この場所で涙ぐんでしまう。モーツァルトが祈りを捧げ、神にこの世の理不尽を問いかける時、この世の永遠の摂理を言葉で語る代わりに「音楽で表現」したのではないか。モーツァルトは、感情や哲学を言葉で表す代わりに「音楽になって」出てきた人である。K618のこの曲は、番号から言って彼の晩年の作品だと思われるが、小品ながら彼の傑作の一つとして後世に残すべき作品である。この間、インターネット・ラジオで偶然かかっているのを聞いた時、思わず敬虔な信仰に身を委ねてしまいそうになった。音楽は、どんな言葉で語っても、耳から直接伝わる感情を言い表すことは不可能である。そのことを何よりも体験し感動する楽曲が、このモーツァルトの小品「アヴェ・ヴェルム」なのである。私は実際にピアノ用のを弾いた経験があるが、まるで天国にいるかのような気持ちになったことを告白しておきたい。安易な気持ちでは弾きたくない、それが私のこの曲への誠意である。

(3)バッハ : G線上のアリア
私は子供の頃、小学校に行くか行かないかの時にバイオリンを少し習っていた事がある。家にはその頃使っていた「チビたバイオリン」がまだ残っていて、あんまり小さいので子供用にしてもまともに音なんか出ないんじゃないかと驚いた記憶がある。レコードも蓄音機でソノシートを回して聞いていた。その時聞いていたのが「江藤俊哉のG線上のアリア 独奏版」である。江藤俊哉の演奏はゆっくりで豊かで弱音まではっきりした「一音一音を自覚して保つ」弾き方だったように思う。何しろ50年も前の事である。しかし今でも彼の弾いたG線上のアリアは、私の耳に残っていると言えなくもない。当時の音はもう覚えてないが、ただ「バッハの作品だ」ということと「確固たる信念の吐露」という二つの事は、ずっと私の「心の音楽の出発点」として通奏低音のように微かに聞こえていたように思う。原曲はオーケストラで確か組曲第三番のARIA(BWV1068)だったと思うが、いまフランス・ブリュッヘンの演奏で聴くと何かもっとキリスト教的な祈りの曲に聞こえてくるから不思議である。江藤俊哉の弾き方は、より哲学的で内省的で深いように思える。しかし実際は、ブリュッヘンのほうがバッハの意図に近いのじゃないかとも思う。我々東洋人は、伝統的に西洋人よりも物事を深く粘着質に捉える傾向があり、音楽もそのほうが日本人にウケが良い。日本風のバッハは、ちょっと不必要なぐらい重たいが。

(4)ショパン : 24の前奏曲第15番「雨だれ」
物悲しげなピアノの音がメロディーを奏でて、ふと窓の外を見ると雨粒がガラスに当たってツーッと流れて行く。日がな一日物思いに耽る僕の心にポッカリと空いた空洞をどうやって埋めようか、、、と妄想を膨らませる曲である。この曲は「19番ハープ」と対になっていて、段々と心の雨雲が晴れてきて雲の合間から薄明かりが差してくるかの気分になる。24の前奏曲は所々繋がっていて、一つの物語になっているようにも聞こえる。キャッチーなメロディーと凄まじいテクニックに支えられた彼の楽曲は、サロンでは大受けだったがしかし全体に暗く沈んでいて、故郷ポーランドの空を遠くパリから眺めやる彼の感情は、美しさに酔ってばかりではなかった。ショパンは結局、力強く華やかで陽気な曲よりも、可憐で哀しげな貴婦人の愛する孤独な曲のほうが、名曲が多い。

(5)シューベルト : 4つの即興曲 D899 作品90の3
これこそシューベルトの心の祈りであろう。私はとうとうケンプの名盤を手に入れる事ができず、未だに一枚も持っていないのが残念である。案外とアマゾンでも見つからないのだからクラシック・ファンは何を買っているのかと不思議に思う。私は先日病気をして以来、断捨離を健気にも実行して買い物はなるべく控えているので、レコードを買うという選択肢は難しいが、レコード屋で偶然見かけたら絶対買ってしまうと思うので気をつけている。この曲は速く弾く曲ではないがテンポはしっかり守りたい。小学生のテクニック自慢で馬鹿みたいにガサツに弾きまくるのがいるが、この曲を弾くには「テンポの揺らぎ」が絶妙出ないとつまらない普通の曲になってしまう。これはシューベルトの祈りなのだ、だから「すんなり」弾いたらただの日曜日の礼拝になってしまう。独り神に向かって心の中を絞り出すように、途切れ途切れに観念したように祈りを捧げ、それでも涙ながらに心を震わせて救いを求めるシューベルトの「愛への渇望」を理解すれば、この曲を「あっさりとは弾けない」はずである。だが、ポーランドのツィメルマンの弾くのをユーチューブで聞いた時は、「こりゃ遅すぎる!」と思った。彼はショパンのコンチェルトでも遅すぎるくらい遅いので、全体に感情を込めすぎているのだろう。しかし感情を込めるのと情緒に流されるのとはチョット違うのではないか。速く弾くのと遅く弾くのとの混じり合った「揺らぎ」が大事なのだ。ケンプのは神がかっているらしいので、なんとかして一度聞いてみたいものである。


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