そもそも音楽の原点は人間の叫びである。それは自分が何か感情を揺り動かされる出来事に出会った時、それを仲間に伝えようとする行為とも言える。言葉が未発達な原始の時代には単なる情報の伝達かも知れないし、或いはもっと複雑な感情や心の苦しさ・葛藤を共有したいという欲求でもあったと考えられる。またはその範囲を広げて自然界の音の模倣も含めるとするなら、その音には「単音」のみが存在する。現在我々が日常的に聴き慣れている「和音」は、自然界には存在しない音なのだ。例えば虫の鳴き声や小鳥の囀りから猛獣の咆哮に至るまで、全ての生き物の鳴き声は皆「単音」である。また森のざわめきや滝の轟く音、海の波寄せる音から火山の爆発音に至るまで、我々の耳に入る音は全て、音色の違いや高低差はあっても必ず「一種類の音」なのだ。何かしらの音が「和音」で鳴ることは、自然界ではあり得ない。私がこの事に昨日初めて思い至ったのは、正に迂闊だった。というか、当たり前すぎて頭の中から完全に消えていた、というのが正しいように思う。音楽の原点は元々「人と人のコミュニケーション」にある。例えば演奏者が楽器で音を奏でる。それを聞いている者が「何かを理解して」演奏者聴衆双方が感情を共有し、一体になる。音楽とは、そのようなコミュニケーションの場だ、というのが私の音楽というものの認識である。
ちょっと話は逸れるが人と人のコミュニケーションには色々なツールがあり、言葉もあれば絵画もあり、建物や織物・焼物や彫刻また匂いや味もそれに含まれるかも知れない。人間の持つ感覚器官全てにおいて、コミュニケーションは成り立つのである。それは喜びや悲しみや怒りや希望など、感情が篭った全てのことを「共有する」ことで成立する作業であり、私はこれを「芸術」と呼ぶことにしている。これは「なんらかの感情を共有し一体になること」と定義しても良い、と考えている。
話を元に戻すと、「ポリフォニーの軽視」は小学校以来の西洋音楽教育が、結果として間違った音楽概念を子供に教え込んできたことの証拠なのである。音楽の基本は「人間の声であり歌である」はずだ。そして声を形作る「音源」は人間の声帯であるから、声は必ず「単音」になる(もし和音を出せる人がいるなら是非聞いてみたいものだが、まずいないと思う)。西洋音楽の歴史も人間の声と同様、単音の作る「メロディ=単旋律」から始まった。これは恥ずかしながら数日前に聞いたラジオの、放送大学講座「西洋音楽史」で知った事である。単旋律から始まった音楽はその後、長い間「単旋律とその他の単旋律の組み合わせ、つまりポリフォニー」の形で発展した。これが18世紀に和声学が登場するまで、西洋で愛聴されていた音楽の全てである。・・・これは私が「音楽」というものを理解する上で最終的に到達した「結論」だ。まあ素人考えで説得力がないようにも思うが、色々と考えた結果の結論である。つまり、「ポリフォニー」こそが全ての音楽の原点だということ。日本では小学校で和声学を先に覚え、少し経ってから「バロック音楽を学ぶ過程で」初めてポリフォニーを勉強するという、順序が逆の教え方になっている。何だか突飛なことを思いついて書き殴っているように思われる人もいるかもしれないが、これは案外「的を得た意見だ」なと内心では思っている。
そんな事を考えながら日本の音楽つまり洋楽に対する和楽を考えてみると、正にドンピシャで「単旋律のみ」で構成された音楽ではないか!。日本の古くからある伝統芸能としての音楽には、いわゆる和声が存在しないのである。尺八や鉦・太鼓はもちろんのこと、三味線・琴から琵琶・笙に至るまで、皆「単旋律」を演奏し、聴く者も「和音の美しさ」などというものは求めなかったのだ。今では三味線で和音を奏でる奏法もあるようだが、昔は全て単音で事足りていた。というか、その単音の質を極限にまで高めることに、日本人は己の能力を磨いてきたのである。
だから単純にジャーンと和音を鳴らせば音楽らしく聞こえるというのは素人考えで、本当を言えば間違っているともいえる。演奏する音を和音にすれば、一つ一つの音は全体の中に隠されて薄まってしまうのだ。小学校で最初に学ぶ「合唱」というのは、要すれば「個人個人を目立たさずに全体の中に埋没する作業「であり、個性を殺して「みんなで何かを演奏する」という協調教育の一環でしかない。私は生徒が一人一人、別々のメロディを演奏するポリフォニーの喜びを体得することで、「個性を持ちつつ全体で喜びを共有する」と言う、音楽本来の楽しさを教えるのが学校教育としては基本にすべきではないか、と考える。
まあ堅苦しい話をしてしまったが、西洋の音楽などは単なる合唱というよりは「2声または3声など」多声の音楽が多いように感じた。日本の歌謡曲などはデュエット曲であっても、一つのメロディを男女で代わるがわる歌う例が圧倒的に多い。一方で海外のデュエット曲は音程・リズムを変えて、男女がまるで別の曲を歌っているようになりながら、最後には二人の声が一つの和音になって響く、という形が多い。これも個人主義の西洋と団体主義の東洋という、民族性の違いだろうか。日本の音楽の究極の到達点は「枯れ林を吹き抜ける秋風の音」とはよく言ったものである。どちらかというと西洋の描く「個人のぶつかり合うドラマチックな世界」ではなく、人々の営みではなく「自然の悠久な神秘」に向かっているようだ。こうなるともはや人間の喜びなどを遥かに超越した、山岳信仰などに象徴される「一種の宗教的感動」とも考えられて感慨深い。
何にしても東洋ではポリフォニーは発達しなかった。交響曲はおろか、バッハが感動して「平均率ピアノ曲集」を書いたような「楽器の進歩」もなく、ほぞぼそと三味線を爪弾いて江戸時代まで過ごして来たのである。なんとも寂しい話だ。まあ昔の話はいいとして、折角ポリフォニーが音楽の原点だと分かったわけであるから、これからは「別々の旋律を同時に聴きながら」それらの離れたり絡み合ったりする「ハーモニー」を楽しむ聴き方を覚えることである。それは複数の人間の織りなす「コミュニケーションのドラマ」だと私は考える。Aが歌いBが唱和するオペラの二重唱を想像すれば分かり易い。それぞれの旋律は別個の感情を表現しつつ、全体としては一つのドラマを形成している。それを頭の中でも「別々のもの」として、できるだけ分離して聴く訓練だ。試しに簡単なピアノ曲を聴くとして、それを「伴奏付き旋律」と捉えるのではなく、主旋律と「控え目に奏でられた別旋律」の、二つの別個の旋律が鳴っているように聞こえれば成功である。
今回何だかグダグダとまだるっこしく書いてしまったが、言いたかったことは「ポリフォニーの音楽」を見直してみようということである。そう思ってもう一度バッハやヘンデルはもちろんのこと、ハイドン・モーツァルト辺りまでの音楽を聴いてみると、皆んなポリフォニーの原則を守って曲を書いているように思えた。ベートーベンから次第に音楽は「個人の胸の内を表現するもの」になるか、または「自然や外界の出来事を伝達するもの」になってしまって、複数の人間の「感情が重なり合うポリフォニーの世界」は一見衰退したように見える。絵画が中世の人物画から自然描写の風景画に移っていったように、音楽も貴族の楽しみとして「上質なもの」を求めた時代から、「大衆の安直な娯楽」へと変質していったわけである。そしてオペラがミュージカルへと発展し、演劇が映画へと間口を広げたと同様に、音楽の世界も美声を楽しむ独唱からグループでダンスを踊るパフォーマンス重視の形態に変化しつつあると私は思った。
では音楽の本質は変わってしまったのかというと、それでも私は本質は変わっていないと思っている。ただ内容が精密で洗練された細やかなものから、大雑把な大衆エネルギーを主体とするものに変わっただけである。音楽は、旋律を聴いて「感情を揺り動かす」ことが出来ればそれで完結する。一にも二にも旋律こそが全てだ(これは今日、パバロッティの歌声を聴いて確信した)。私は人間の声こそが「最高の楽器」だと思っている。よって、音楽の本質は「歌声を聴いて感情的になること」なのだ。そしてその旋律が複数ある時、感情は個人的なものから「社会的でドラマチック」なものになる。これがポリフォニーの魅力だと私は思う。とりあえずどんな曲でも良い、「伴奏を一つのメロディ」として耳を傾けてみることをお勧めする。そこから新しい音楽の世界が広がるだろう。
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