明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

島根の一畑寺

2017-09-03 22:40:00 | 歴史・旅行
五木寛之の百寺巡礼で久々の啓示を得た。それは島根の一畑寺のことである。寺の作りがどうこう言う話ではなく、応対に出た住職の語る言葉に感銘を覚えたのだ。世界中で宗教はあまねく広まっており、宗教を持たない人間はないという位に誰しもが何らかの神を拝んでいる。なのに我々日本人は、日本人にとって宗教とは何か、という根元的な問いかけすら満足に答えられないでいるのが現実ではないか。五木の百寺巡礼も、その答を捜して尋ね歩いているのだろうと思っていたが、その答えはまだ出ていない。宗教とは水や空気のように我々の生活のなかに染み込んでいて、改まって考えることがもう不可能になってしまったかのようである。

我々一般庶民は、生きていく間に様々なトラブルや病気や人間相互の軋轢の中に暮らして行かざるを得ない。その有りとあらゆる厄災から身を守り現世のご利益を得たいと願う気持ちは、万人共通なものであり、これが宗教の原点であると言う。一畑寺は眼病平癒の寺だそうで、願いを書いた絵馬の多くは目の悩みの回復を祈願したものであった。五木も病を持つ人々の切なる思いを痛いくらいに感じて、宗教の役割の大きさを改めて知ったと語る。そこで住職に仏道修行と現世利益との違いをどう捉えるか?と意地悪な質問を投げ掛けた。

それに答えるに、住職は淡々とした口調で「初めはご利益を求めて祈っておられる方が多いです」と切り出す。「でも、それでいいと思います」と続けられる。五木は「ほう!」と言って意外な顔をした。それに対する住職の言葉が、「でも長いこと一心に祈っておられるうちにだんだんとご利益の事を忘れて、皆さん仏さまへの無心の祈りになっていくんです」と、一様に祈りの形が変わっていく事を五木に話した。信じるとはこう言うことであろう。私はこの言葉のうちに、宗教の原点をみたと思った。宗教とは祈ることである。祈ること以外には何も無い。ただ一心に聖なる存在に祈りを捧げる「無」の境地こそが、宗教である。それを一畑寺の住職の言葉は示している。ここでの五木の例え話、「山に登る道はいくつもあるが、みな最後は頂上へ至る」、は蛇足であった。

現世利益を願うこともいろいろな法の一つの形であり、それを真剣に願っている民衆を間違った考えに染まっている者とは、彼は決して思わないのである。聖なるものへの信心は、必ずや最後は「無心の祈り」に至る。一畑寺の住職は、その人間の心の機微を平易な言葉で語ったのである。それを私が勝手に解釈すれば、祈ることによって自意識を通り抜け、「他者にすがる」という親鸞の言葉が、重みと現実味を帯びてくるのではないだろうか。

もともと私は、仏教の修行スタイルを余り良いものとは思っていなかった。人の決めたやり方に従って修行しても、決して悟りには至らない、と思っていたのだ。比叡山の修行に「十二年籠山行」と言うものがある。十二年間たった一人で山に籠り、ひたすら祈り続けると言う荒行である。「千日回峯行」と言うものもあり、1日6時間30キロメートルを7年間歩き続けると言う、まさに人間の能力を超えた「決死の行」である。これに挑むものは途中で投げ出すことはできないと言う。やめれば「死」が待っていると言う恐ろしい修行である。だが、果たしてこれらの荒行で「悟り」が得られるのか?私は長い間疑問に思っていた。何かをすれば悟りが与えられる、と言うように、悟りを「ご褒美」と捉えるのは間違いではないか、と思っていたのである。

各地の寺院に本尊は秘仏で隠してあり、「お前立ち」と言う身代わりの像を置いて、それを普段は拝むというのがある。本尊を何故秘仏と称して隠しているのか、私には不思議だった。しかし今は、少し理解できるような気がするのである。仏道修行のなかにおいては、本尊とは「見える筈の無いもの」なのだと思ったのだ。千日回峰行のような荒行に耐え、肉体の限界を超えてきた僧は、「見えない何かを信じる人になって」帰ってきたのではないだろうか。本人の意識はどうであろうと、そう解釈できるのだと私は思う。

自分を取るに足らないつまらないものと認識し、一方で「絶対者の存在を信じる」こと、それを無条件に信じられることが「悟り」なのだろうと思った。悟りを得るには、決まった「方法」はない。あらゆるものの声に耳を傾け、ただ無心に祈り続けるしかないのである。

テレビを見ながら、こんなことを考えてしまった。五木寛之の百寺巡礼、相当に考えさせられる番組である。

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