明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

芸術とは何か?、ユーミンとサザンの違い

2021-07-12 19:29:51 | 芸術・読書・外国語

先ず、検討するに当たって「音楽」を題材に考えてみる。大前提として、音楽は鑑賞する対象である。そして作曲家や演奏家もまた同時に鑑賞者でもあるという相互構造が、この問題を分かりにくくしてしまうのだ。芸術はコミュニケーションだ、というのが私の根本原則である。これを原点に考えれば、作者が音楽を作り、それが聞くものに伝わって「コミュニケーション」が完成する。だが音楽全体をコミュニケーションとしてしまったら、この議論は成立しない。音楽というものをもう少し精密に分析しなければ、本当のところは見えてこないと思うのだ。では、音楽を分析するとどうなるのか。

音楽は何よりも先ず「メロディ=旋律」で出来ている。古今東西、メロディのない音楽はもしかしたら「日本の雅楽」くらいであろう(雅楽を音楽と呼べればの話だが、私的には「一種の合図」と考えている)。それは別として、まずメロディを聞いて鑑賞者は「瞬時に」好きかそうでないかを判断する。これは食べ物の味を食べた瞬間に判断するのと同じであろう。コミュニケーションはこの時点で完結してしまう。世に作曲技法とか和声学とか、色々と音楽の作り方を理論化するものがあるが不思議と「メロディを作る方法」は見かけない。メロディは音楽の根幹にしてコミュニケーションそのものだから、技術を教えるメソッドとは馴染まないのだろう。メロディは作るものではなく「浮かぶもの」である。

それに対して和声とかリズムとか形式や構成という部分では、数多くの方法が編み出されている。いわゆるクラシックの対位法から現代のジャズ・ロック・ブルースや韓国のダンスリズムに至る楽曲の流れがそうである。こちらは毎年、洪水の如く新しい楽曲が市場に流れてくる。その楽曲の大海を前にして、我々は音楽の本質であるメロディの「本物と偽物」をどうやって見分けるのか。勿論これは芸術の話であって、音楽の「エンタテイメントとしての存在意義」までも否定するつもりは毛頭ない。四六時中芸術鑑賞をしろというのではなく、エンタテイメントもまた大事なことに変わりはないと私は思っている。いやむしろ、芸術を鑑賞したいという時間は「少ない」のが普通の人々の正しい反応であろう。同時代の批評家の酷評する作品が、その後に人々から神の如く持て囃される事は歴史上に良く起きたことである。音楽も昔から同じ反応を人々はしてきた。だからバッハなどは「人々は楽しい音楽を聴きたがる」といって嘆いたという(私の記憶です)。要するに、大体において流行とは俗化の謂である。

話を元に戻すとして、芸術=メロディの本物と偽物を見分ける方法であるが、作者がその作品の中で感情を露にしているか、または作品の外にいて「我々と同じ鑑賞者の立場にいて作っているか」の違い、と考えられる(どゆこと?)。私もブログを書く時には頭の中で、言わんとする「何か」がピッタリ表現されるまで「文章をとっかえひっかえ」しながら、当てはめてみて正解を探すという作業を繰り返している。スッと出る時もあれば散々苦労してもピッタリとはまるものが出ずに、泣く泣く一旦諦めることもしょっちゅうだ。当ブログもアイディアが浮かんだのは一週間も前だが、それを形に出来る「確信のようなもの」が何となく雰囲気で出て来たのが今日であった。それでやっとパソコンを取り出して書き始める事ができた。頭にある「何か」を全部吐き出すことが出来た時には、やっと終わったと感じて少し「身が軽くなる」気分を味わう事ができる。まま、外見だけ論理的に取り繕ってブログを書いてしまう場合もあるが、そういう場合は決まって「評価ばっかりが気になる」のだ。やはり、書くべき内容がない時ほど、評価も悪いのは当然の結果である

さてこの「外にいて鑑賞者と同じ立場で」作っていると感じられる例を一つ挙げるとすれば、例えばサザンオールスターズだ。「桑田佳祐氏」は偉大なメロディメーカーだし、その曲は皆んなキャッチーなメロディと軽快な曲作りで大ヒット連発の、押しも押されもしないポピュラーミュージックの大御所である。彼の作品を「芸術ではない」方に分類するのはちょっと恐れ多いが、エンタテイメント分野での頂点と考えれば「それほど罰当たりでもない」だろうと考えて、敢えて名前を使わさせていただいた。ファンの方のお怒りは尤もであるが、私は別にエンタテイメントより芸術の方が「上」だとは思っていないので、そこのところ十分にご理解願いたい。これは私の想像だが、桑田氏は綿密な計算のもとにどうしたら大衆の支持を得られるのかという見地で「楽曲を作っている」ように思う。これはこれで大した職人技だと私は思う。

だから聞いていて心地よく、全体の場を見事に盛り上げて音楽で皆んなを一つにする、素晴らしい効果を発揮できるのだ。究極のエンタテイメントである。私がコンサートホールの営業担当者なら、迷わずサザンオールスターズを選ぶだろう。間違いなく満員になる。一方、作品の中に入って「その中で必死に歌っている」のが荒井由実であると私は考えた。ユーミンと呼ばれる前の荒井由実作曲時代の方が良くこの感じを表していると思うのだが、まさに偉大な作曲家だと私は思う。メロディも素晴らしいし、何より歌詞が心を打つ。勿論、彼女のように楽曲の中に入り込んで、その中で何かを必死に伝えようとしている作曲家は他にも大勢いるだろう。昔の「オフコース」や、もう亡くなってしまったが「尾崎豊」などもそのうちの一人である。作曲家の数としては、むしろこちらの方が多いかも知れない。ただ人々に認められ成功する人というのは、その中でも数少ない一握りの天才だけである。芸術家の道はエンタテイメントの世界よりも「ずっとずっと厳しい」のだ。

では、その外と中との違いとは「どうやって見分けるのか」といえば、それはただもう「聴いた時の感覚」でしかない。ただ、私の感覚としては芸術の方が、聞いたあとで「ドッと疲れる」気がする。きっと聴く側の方にも、精神の緊張を強いられるのだろう。これはまた、人それぞれに答えが違うかも知れない。それにメロディと言っても歌い方や声質など表現が多様である。まあ、こんな具合で説明するのは芸術論としては「尻すぼみ感」は免れないが、言わんとしていることは「一応言えた」としておきたい(勝手に決めるなよ!)。この芸術論を「絵画や詩」などの別分野に広げて考えてみるのも、十分意味があると私は思っている。次回は「絵画の芸術性」ということで、今回は終了としたい。ご精読、ありがとうございました。


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