前編では、日本主義の欠点が「ダメな人間を放置してしまう風土」にある、と結論づけた。疑似家族に守られて勢力を拡大しようとする日本主義者は、本来の能力よりも「仲間」の総合力で競争相手に勝とうとする。それが人間のエゴと相まって、国家を自分の物と勘違いしてしまう人間が必ず現れてくるのだ。それは家族友愛を基礎とした国家主義の最大の欠点である。
ではグローバリズム資本主義の視点ではどうなのか。
1 グローバリストは人間の人種や育った出自や背景の民族・国家などの環境を無視し、その人の「能力のみ」を評価する。同じ民族だから仲間意識が芽生えて他の民族より優先する、というような事はしないのである。当然、評価に従って仕事の成果を見込むから、才能・経験の差異に応じて結果もそれなりに出てくる。実際の能力を必要に応じて使っていくので計画に狂いがなく、当然投資コストを適正に回収できて「最小の労力で最大の効果」を上げることが出来るのだ。日本人だからといって「人情に流されて失敗を許し」たり、切り詰められるコストを仲間だからといって「温情で大目に見る」こともしないから、日本主義の人からは「冷徹・無碍」と評判は悪くても、気にせず「必要な処置を断行」することで「成果を上げる」ことが可能なのだ。そのメンバーは「人種・民族・国家」や更に言えば「家族」の概念にも縛られず、ただ本人の能力のみに依存した集団であるから、団体の結束は「企業の目標」を達成するためにのみに形作られた「利益追求集団」になる。目標は自社の利益であるから、個人的目標は「二番目以降」であり「利益が達成される時のみ」に初めて自己実現の喜びが生まれるのである。日本主義は目標と自己実現が「同じレールの上にあった」が、グローバリストの目標は「非人間的な企業の肥大化」に陥る危険がある。世の中には色んな人間がいて、それらを一つの集団に纏める「目標」が必要なのだが、その目標が「能力の適正な評価」という無味乾燥なものであれば、メンバーの結束はどうしても緩くなってしまう。
2 では、グローバリストはどういう人々と仲間意識を育んでいこうとしているのだろうか。日本主義のような民族・国家を基礎とした疑似家族の仲間意識ではなく、それから完全に切り離された「能力ある個人」を自分たちの集団として作る事にならざるを得ない。自然と出来る人・才能がある人同士が集まって(当然彼らは高収入でもあるから)、出来ない一般の人々や日本主義の「馴れ合い集団」とは一線を画した「有能なセレブリティ」を形成するようになる。国家を超えた友情である。ゴルフの松山英樹が、普通の日本人よりもPGAツアーのハイレベルな選手の方に「よりシンパシィ」を感ずるのは当たり前だとも言えるのだ。このような例はゴルフに限らず「あらゆる分野で」世界中に張り巡らされたネットワークを形成し、一般の人間たちをふるい落としてゆく。一流の人間は一流の人間同士で「仲間意識を育んで」行くようになるのである。今回の主役の一人である「ルノー」が、グローバリストの集団によって支配されているのなら、企業拡大の原理に則って「日産・三菱を子会社化する」ことに躊躇するという考えは「毛頭無い」とも言えるのではないだろうか。フランスの世論も、ルノーが日産・三菱を子会社化して「世界一の大企業に成長する」という意味においては、事態を正しく評価していると言えよう。事実は少し違っていて、マクロンの思惑が「フランス主義」的な意図を持っていたことで、企業の論理を超えてしまった。だから日本政府も「日本主義」の立場で、クーデターまがいの微罪でゴーンを逮捕したのである。もしルノーが徹頭徹尾「グローバリストの眼で企業最適化」を目指していたら、例え日本政府がどうであろうとも「打つ手は無かった」と言える。そうすれば三社合併してフランス人の雇用が増大することもなく、「真に能力のある人」が採用されるであろう。アメリカIT企業の多くがインド人を最高経営責任者に抜擢しているように、フランス企業のルノーのCEOが日本人でも構わないわけだし、セネガル人や台湾人がその業務に相応しいと思えば「CEO」になるのである。そしてルノーの上げる利益は「株主」が貰うことになる。つまりは、ゴーンもただの会長でしかない。
3 だがグローバリストも人の子である。個人的にウマの合う人や能力はイマイチでも「人間的に魅力のあるダメ人間」とか、頭脳はちょっと弱いが素晴らしく美しい身体と「奔放な性格を持った女性」とか、能力一辺倒なだけではない「友人関係」を持っている筈である。社会の表舞台では競争に明け暮れている才能溢れたエリートが、プライベートでは「個人的友人関係」の世界に安住してストレスを発散させている、というのは理解できる。競争の中でライバル関係を超えた友情というのもあるだろうが、逆に「競争のない平和な人間関係」に心の安らぎを得るというのは、人間本来の本能である。とすれば、日本主義もグローバリズムも「根は同じ家族主義」だ、ということになる。日本主義は1億何千万の国民を「日本人」という名前で統合して戦っているのに比べて、グローバリストは「資本家集団の精々何十人」に過ぎない。数が少ないだけに資本家同士のまとまりは案外堅く、集団の利益が損なわれると思えば「結束して防衛手段を講じる」のである。つまりグローバリストは「世界的資本家集団」を形成して、企業の収益を最大化するために国家主義者と戦うのだ。それは「とりもなおさず自由貿易主義」の論理である。国家間の自由な取引で最大の企業利益を上げる、言わば国家の存在をも超越するボーダーレスな競争社会、それがグローバリストの論理の帰結である。人種・民族・国家を超えた「資本の論理」が、全ての行動原理の元となり、表向きの活動を決定してゆく。結果は「国家に縛られない資本家富裕層」が形成され、「その他大勢の労働者貧困層」が収奪される仕組みが出来上がる。但し、それが行き過ぎると「マルクスの社会主義」が復活して、資本家を倒し「社会主義革命」を引き起こすのが流れである。この「支配層の担い手」が代わる代わる交代することで、世界の歴史が作られてきたのである。
ちょっと中途半端な説明で申し訳ないが、集中力もなくなって来たので一応エンディングに向かうことにしよう。
世の中に優秀なものとそうでもないものが混在する以上、支配するものと支配されるものが生まれるのは自然の成り行きなのである。それが競争社会の中で自己の勢力を拡大する方法として「日本主義」を採用すれば、自分の能力「以上の力」を持つことが出来る。つまり日本主義は「貧者の論理」である。一方、既に優秀な人間に取って見れば、自己の勢力を拡大する為に日本主義を採用することは「お荷物を背負い込む」、リスクのある方法でしか無い。当然、「富裕層は富裕層同士」が集まってグループを作ることになる。これを表面上は日本主義だが精神的実態はグローバリスト、というのが「似非国家主義」であり「日本会議」なのではないかと私は危惧している(あくまで私の想像である)。つまり、自分というものを、自らが生まれ育った国家・民族およびその土地に生きる国民を世界の他民族から守る英雄と思ったら、その瞬間に「国家主義」という全体主義に陥ってしまう。国民が「蜂の群れ」のように役割分担を決められたまま、各々が仕事をし国家全体で生き延びてゆく。そういう仕組みに組み込まれ、個人の主体性よりも全体を優先する考えに染まってしまうのが、「愛国感情の発露」である。大阪ナオミが優勝して日本人バンザイと叫ぶのも、愛国感情の成せる技ではないだろうか。それが他国を侵略するのではなく、仲良く平和共存出来る間は「気持ち良い競争関係」なのである。何事も戦争になるまで相手を追い詰めてはいけないのだが、その加減を分かっている人間がどれほどいるだろうか。世界は「危ういバランスの上で成り立っているシーソーのようなもの」である。片方が大きく重くなれば、もう片方は空に跳ね上げられてしまうだろう。そのバランスを取る役割を、日本が担う・・・なんてことは地球がでんぐり返っても「ない」とだけ言っておこう。
結論:ゴーンが有価証券不実記載という微罪で逮捕され、フランス・マクロンの策略を「すんでの所でボツ」にした日本政府の英断で日産の独立が保たれた、という日本主義対フランス主義的ニュースと解釈していては「いつの間にか自分も日本主義の虜」に絡め取られてしまう。正解は「グローバリスト」のように考え、問題を人情に流されず冷徹に判断し、しかし企業の競争に出来るだけ巻き込まれないようにして「労働者の立場」を貫き、プライベートは「日本主義」として友人関係を大切にしながら、最後の最後は「お国の為」などという美辞麗句に騙されないように「個人の主体性」を守る。そういう生き方を(節操が無いと言われそうだが)してみたいものである。
ではグローバリズム資本主義の視点ではどうなのか。
1 グローバリストは人間の人種や育った出自や背景の民族・国家などの環境を無視し、その人の「能力のみ」を評価する。同じ民族だから仲間意識が芽生えて他の民族より優先する、というような事はしないのである。当然、評価に従って仕事の成果を見込むから、才能・経験の差異に応じて結果もそれなりに出てくる。実際の能力を必要に応じて使っていくので計画に狂いがなく、当然投資コストを適正に回収できて「最小の労力で最大の効果」を上げることが出来るのだ。日本人だからといって「人情に流されて失敗を許し」たり、切り詰められるコストを仲間だからといって「温情で大目に見る」こともしないから、日本主義の人からは「冷徹・無碍」と評判は悪くても、気にせず「必要な処置を断行」することで「成果を上げる」ことが可能なのだ。そのメンバーは「人種・民族・国家」や更に言えば「家族」の概念にも縛られず、ただ本人の能力のみに依存した集団であるから、団体の結束は「企業の目標」を達成するためにのみに形作られた「利益追求集団」になる。目標は自社の利益であるから、個人的目標は「二番目以降」であり「利益が達成される時のみ」に初めて自己実現の喜びが生まれるのである。日本主義は目標と自己実現が「同じレールの上にあった」が、グローバリストの目標は「非人間的な企業の肥大化」に陥る危険がある。世の中には色んな人間がいて、それらを一つの集団に纏める「目標」が必要なのだが、その目標が「能力の適正な評価」という無味乾燥なものであれば、メンバーの結束はどうしても緩くなってしまう。
2 では、グローバリストはどういう人々と仲間意識を育んでいこうとしているのだろうか。日本主義のような民族・国家を基礎とした疑似家族の仲間意識ではなく、それから完全に切り離された「能力ある個人」を自分たちの集団として作る事にならざるを得ない。自然と出来る人・才能がある人同士が集まって(当然彼らは高収入でもあるから)、出来ない一般の人々や日本主義の「馴れ合い集団」とは一線を画した「有能なセレブリティ」を形成するようになる。国家を超えた友情である。ゴルフの松山英樹が、普通の日本人よりもPGAツアーのハイレベルな選手の方に「よりシンパシィ」を感ずるのは当たり前だとも言えるのだ。このような例はゴルフに限らず「あらゆる分野で」世界中に張り巡らされたネットワークを形成し、一般の人間たちをふるい落としてゆく。一流の人間は一流の人間同士で「仲間意識を育んで」行くようになるのである。今回の主役の一人である「ルノー」が、グローバリストの集団によって支配されているのなら、企業拡大の原理に則って「日産・三菱を子会社化する」ことに躊躇するという考えは「毛頭無い」とも言えるのではないだろうか。フランスの世論も、ルノーが日産・三菱を子会社化して「世界一の大企業に成長する」という意味においては、事態を正しく評価していると言えよう。事実は少し違っていて、マクロンの思惑が「フランス主義」的な意図を持っていたことで、企業の論理を超えてしまった。だから日本政府も「日本主義」の立場で、クーデターまがいの微罪でゴーンを逮捕したのである。もしルノーが徹頭徹尾「グローバリストの眼で企業最適化」を目指していたら、例え日本政府がどうであろうとも「打つ手は無かった」と言える。そうすれば三社合併してフランス人の雇用が増大することもなく、「真に能力のある人」が採用されるであろう。アメリカIT企業の多くがインド人を最高経営責任者に抜擢しているように、フランス企業のルノーのCEOが日本人でも構わないわけだし、セネガル人や台湾人がその業務に相応しいと思えば「CEO」になるのである。そしてルノーの上げる利益は「株主」が貰うことになる。つまりは、ゴーンもただの会長でしかない。
3 だがグローバリストも人の子である。個人的にウマの合う人や能力はイマイチでも「人間的に魅力のあるダメ人間」とか、頭脳はちょっと弱いが素晴らしく美しい身体と「奔放な性格を持った女性」とか、能力一辺倒なだけではない「友人関係」を持っている筈である。社会の表舞台では競争に明け暮れている才能溢れたエリートが、プライベートでは「個人的友人関係」の世界に安住してストレスを発散させている、というのは理解できる。競争の中でライバル関係を超えた友情というのもあるだろうが、逆に「競争のない平和な人間関係」に心の安らぎを得るというのは、人間本来の本能である。とすれば、日本主義もグローバリズムも「根は同じ家族主義」だ、ということになる。日本主義は1億何千万の国民を「日本人」という名前で統合して戦っているのに比べて、グローバリストは「資本家集団の精々何十人」に過ぎない。数が少ないだけに資本家同士のまとまりは案外堅く、集団の利益が損なわれると思えば「結束して防衛手段を講じる」のである。つまりグローバリストは「世界的資本家集団」を形成して、企業の収益を最大化するために国家主義者と戦うのだ。それは「とりもなおさず自由貿易主義」の論理である。国家間の自由な取引で最大の企業利益を上げる、言わば国家の存在をも超越するボーダーレスな競争社会、それがグローバリストの論理の帰結である。人種・民族・国家を超えた「資本の論理」が、全ての行動原理の元となり、表向きの活動を決定してゆく。結果は「国家に縛られない資本家富裕層」が形成され、「その他大勢の労働者貧困層」が収奪される仕組みが出来上がる。但し、それが行き過ぎると「マルクスの社会主義」が復活して、資本家を倒し「社会主義革命」を引き起こすのが流れである。この「支配層の担い手」が代わる代わる交代することで、世界の歴史が作られてきたのである。
ちょっと中途半端な説明で申し訳ないが、集中力もなくなって来たので一応エンディングに向かうことにしよう。
世の中に優秀なものとそうでもないものが混在する以上、支配するものと支配されるものが生まれるのは自然の成り行きなのである。それが競争社会の中で自己の勢力を拡大する方法として「日本主義」を採用すれば、自分の能力「以上の力」を持つことが出来る。つまり日本主義は「貧者の論理」である。一方、既に優秀な人間に取って見れば、自己の勢力を拡大する為に日本主義を採用することは「お荷物を背負い込む」、リスクのある方法でしか無い。当然、「富裕層は富裕層同士」が集まってグループを作ることになる。これを表面上は日本主義だが精神的実態はグローバリスト、というのが「似非国家主義」であり「日本会議」なのではないかと私は危惧している(あくまで私の想像である)。つまり、自分というものを、自らが生まれ育った国家・民族およびその土地に生きる国民を世界の他民族から守る英雄と思ったら、その瞬間に「国家主義」という全体主義に陥ってしまう。国民が「蜂の群れ」のように役割分担を決められたまま、各々が仕事をし国家全体で生き延びてゆく。そういう仕組みに組み込まれ、個人の主体性よりも全体を優先する考えに染まってしまうのが、「愛国感情の発露」である。大阪ナオミが優勝して日本人バンザイと叫ぶのも、愛国感情の成せる技ではないだろうか。それが他国を侵略するのではなく、仲良く平和共存出来る間は「気持ち良い競争関係」なのである。何事も戦争になるまで相手を追い詰めてはいけないのだが、その加減を分かっている人間がどれほどいるだろうか。世界は「危ういバランスの上で成り立っているシーソーのようなもの」である。片方が大きく重くなれば、もう片方は空に跳ね上げられてしまうだろう。そのバランスを取る役割を、日本が担う・・・なんてことは地球がでんぐり返っても「ない」とだけ言っておこう。
結論:ゴーンが有価証券不実記載という微罪で逮捕され、フランス・マクロンの策略を「すんでの所でボツ」にした日本政府の英断で日産の独立が保たれた、という日本主義対フランス主義的ニュースと解釈していては「いつの間にか自分も日本主義の虜」に絡め取られてしまう。正解は「グローバリスト」のように考え、問題を人情に流されず冷徹に判断し、しかし企業の競争に出来るだけ巻き込まれないようにして「労働者の立場」を貫き、プライベートは「日本主義」として友人関係を大切にしながら、最後の最後は「お国の為」などという美辞麗句に騙されないように「個人の主体性」を守る。そういう生き方を(節操が無いと言われそうだが)してみたいものである。
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