先日、くまざわ書店で在庫がなかったと書いた本が、MODI のジュンク堂では2冊も在庫していた。流石である。やっぱり本屋の没落は加速しているみたいだ。まあ、私はアマゾンがあるから困らないけど、出来たら全部「電子ブック化」してもらいたいね。そんなこんなで早速読み始めたが、いきなり著者から「大概の人は、聞くより話すのが好き」とパンチをかまされた、ホントかよ〜?。当然、聞き上手になるためには「訓練」が必要だと書いてある。あれ?、これは難しいのかな、と思うが「さにあらず」。これから書かれていることを注意深く覚えていけば、誰でも必ず聞き上手になれる、と著者は断言してくれた。ラッキー!。これは、ゴルフの「これさえ覚えれば、あなたも明日から90切り!」的なノリで読めばいいのだな、と気が楽になる(軽く見過ぎだろう!)。
そう言えば、私なぞはブログで言いたい放題を書きまくって、読者の「数少ないコメント」には全く一顧だにしないという、不遜な態度の「言いっ放し」を通している半端者である。これを機に大いに反省し、しっかり居住まいを正して「拝聴ならぬ拝読仕ろう」と心を決めた。私の先天的に「欠けている部分」を補って、見事に「聞き上手」になるためである。先ずはインプレッションから書いていこう。
本の章立ては短く簡潔なようだ。
1、第一章で「聞き上手は話さない」と書いてある。聞き上手は相槌を打ちながら、相手が気まずくならない雰囲気を醸し出して、「最低30秒以上」は、相手が話し出すのを待つという。これはプロの技術だそうだ。テレビで「朝まで討論」という番組があるが、相手構わず我先に自分の意見をワーワー言い合って、まるで「視聴者は完全無視」と言わんばかりの番組進行をしていて、実に見苦しいの一言である。結局私は一度チラッと見ただけで、その後チャンネルを合わせたことはない(これは教育的指導である)。田原総一朗も巷の評判の割には、まるで「議論というもの」を知らないようだ。こういう人は聞き上手にはなれないらしい。まず、どこかで自分の言いたいことを全部喋ってしまって「自分の胸の内を空っぽにして」から、それから「聞き上手」になる訓練を始めることだ、と著者は言う。耳が痛いねぇ。
2、次の章で著者は「聞くことは疲れる」ものだと言う。確かに興味のない話をベラベラ喋りまくられれば、誰しも疲れてしまうのは無理もない。そもそも興味がないというのが問題だが。そう言えば、音楽でも「聞く者の愚痴を吸収してくれる」かのような、疲れた心を癒やし、思いに寄り添うような楽曲がある。モーツァルトなんか「まさに心を洗い流してくれる最高の音楽」ではないだろうか?!。確かにモーツァルトを聞いていると、つまらない悩みや対人関係の愚痴など「スーッと消えていくような純粋さ」がある。もしかしたら、名曲とは「聞き上手な曲」かも知れないな、と考えた。この「音楽と聞き上手の関係」は、もう一度別の機会に考えても良さそうな面白い視点だと思う。
著者は、全幅の信頼を寄せて何もかも「洗いざらい」話すと、人の心は無防備になると言う。そう言えば普段人と接している時、我々は「鎧を身に着けて話している」とも言える。以前、小泉進次郎氏が婚約発表の記者会見で「鎧を脱いでも良いんだと思った」と発言していたのを思い出したが、自分の素を曝け出すというのは、政治家は特に難しいのかも知れない。まあ、彼の場合はイメージ先行で、実態とのギャップが激しいから「なおさら」だとも言えるが。そこへいくと私などは「戦う相手もいない」お気楽な余生だから、そもそも「鎧など普段から脱ぎっぱなし」の素の生活である。それでも、誰かと会話する時には「知らず識らず、身構えている」かも知れないと思うと、よっぽど「注意しなければ」聞き上手にはなれないということだろう。まずは聞く姿勢が大事のようだ。
3、話を聞く時には、「相槌」が有効だと言う。相槌は良く聞く単語だが、では相槌を上手に打てるかというと意外と心もとない。これには国民性が大きく関係しているという説もある。例えばディベートという遊びが欧米では盛んに行われていて、小さい時から欧米人は「議論すること」をしっかり身につけている。それに比べて、日本人は議論することが大の苦手で、すぐに「個人攻撃の応酬になる」というあたりが、決定的な文化の違いだろう。議論は相手の意見と自分の意見を戦わせるのが目的で、個人と個人を戦わせる場ではないというのが常識なのだが、どうも日本人は「個人の意見を、即人格と結びつけて捉える癖」があるから厄介だ。このあたりは、聞き上手になる上で「まず最初に乗り越えるべきハードル」だろう。議論と人格を分ける、これ大事なんだが案外できないものだよね(反省!)。
と、こういう調子で「分かりやすいポイント」がどんどん続く。例えば、
○「分からない」が聞き上手のコツとか、
○「相槌の打ち方」で深くも浅くもなる会話とか、
○「聞き上手は避雷針」とか、
○「お互いに愚痴をサラッと流す」ことで人間関係が上手くいくとか、
○話し手が質問する時は、必ず「話し手に関連すること」を聞いてくるとか、
要するに、聞き上手になるには「これこれの点に注意すること」というスタイルで、31のテクニックが箇条書きで進んでいく。
この時ふと思い出したのが、前の会社の上司だった「2つ上の先輩Y氏」のことである。温和な性格のY氏は、私のどんな話でも「私が話し終わるまで聞いてくれ」て、その度に「相槌をいれながら楽しそうに笑ってくれた」のである。今思えば、まさに聞き上手のお手本のような人だった。そんな彼が、一度だけ真顔になって怒った事があった。それは彼が頼んできた売上のデータ集計表を、私が「それを見る人が、間違った方向に導かれかねない」という理由で断ったときである。以前には「頼まれてもいない」のに作成して、その時は一定の効果があった集計表なのだが、今回は「出さないほうがいいな」と私なりに判断したのだった。彼は色々と理屈を並べて資料を要求したのだが、私が「出さないほうが良い理由」をいくら説明しても分かってくれず、とうとう最後には怒って部屋を出ていってしまった。多分、すでに誰かに作成することを約束していたのかも知れない。後にも先にも、彼が怒ったのはこの時だけである。結局私は、後で要求通りの資料を作って彼に渡したが、どうせ渡すなら「黙ってすんなり作ってあげたら良かったな」、と後悔した。これなどは「聞き上手になっていなかった為」に逆に相手を説得できなかった、という残念な例である。今は、私の「聞くテクニックが不足」していたんだと理解していて、そのY氏とは「従前通りの良い関係を保っている」と私は思っている。まあ本音のところは分からないけど・・・。
著者はプロカウンセラーなので「利害関係がない」から言えることなのだが、いわゆる「聞き上手」と、単なる「イエスマン」との違いを知った上で、より高度なテクニックを覚えなければいけない、という教訓である。
このようにして、著者は「聞き上手」と言われるものの色々な側面を書き出していくのだが、ある一定の時間だけ「意図して聞き上手になる」というのではなく、普段から聞き上手であるためにはどうすれば良いのだろう。つまり意図的に演出した「聞き上手」ではなく、もっと「自然に振る舞って」しかも聞き上手だと言われるためには「どういう人になれば」良いのだろうか?
段々、理想の人間像への道筋が見えてきた。人間は本来「孤独な生き物」である。たぶん生物の進化の過程で人間に「自意識と心」が生まれ、本来は必要のない「ふと自分を振り返る」ような瞬間が出来てきたのだ。これは言ってみれば「現代病」である。元々人間は動物である。目の前の出来事に対応しながら、餌を求めて動き続ける存在なのだ。餌を食べて休息し、子孫を残してまた餌を求める。この繰り返しで一生を終わる。それには「意味も目的も無い」。ただ目の前のやらねばならない事を、粛々と行うだけで精一杯なのだ。だが、進化しすぎた人間は「余暇を楽しむ」余裕が出来て、その営みに「意味」を求めるようになった。そして同じような悩みを共有する友人や配偶者を得ることで、つまり「悩みを共感する」ことで、悩みから救われるようになったのである。これを進化と呼ぶかどうかは疑問の余地があるが、「共感できる相手」を必要としていることには間違いがない。
こう考えた時、救いは「悩みがあるから」求められると言える。悩みがなければ「救いも必要ない」のは自明であろう。そこで私は考えた。「共感」とは、人類が作り出した「永遠の個人からの非現実的な脱出」である(どういう意味?)。簡単に言うと、「独りじゃないんだ」って、ただひたすら「信じる」ことだ。この気持を持っていれば、誰でも幸せになれる筈である。
だけど、独りじゃないって、「現実には、有り得ない」じゃないですか。物心がつく前の赤子は別として、「自我が芽生えたら」その後は、「死ぬまで独り」を続けるしかないのが人生なんですよ。
ここから導き出される結論は逆説的ではあるが、悩みをなくす唯一の方法は「目の前のことに集中し、自分の内面は忘れる」ことである。つまり「動物=ケダモノになれ!」、である(皆さん、勘違いしないように)。究極の悟りの境地は、言うならば「無人島で餌を探しながらその日を暮らす」状態となる。そう言えば、お寺の高僧も「無心」というのが最高の境地だと言っていた。では無心とは何か、それは日々早朝から日没まで間断なく続く勤行に従うことに他ならない。やることが多ければ、悩んでいる時間がなくなるのは道理である。どうやって餌を取るかに着目してみても、これはこれで「頭をフル回転させないと出来ない作業」である。もし貴方が無人島に住んでいるとして、偶然にも「もう一人」人間に出会ったと仮定しよう。そしたら今度は協力して、もっとデカい獲物を効率よく「共同で獲る」ことを考えるだろう。共感などは求めはしない。
ここでちょっと脇道に逸れるが、例えば100頭のシマウマと100頭のライオンが、100部屋のホテルに泊まっているとする。シマウマがどういう行動を取れば一番「種として生き残る」事ができるか、を考えてみよう。もしシマウマが100部屋に分散していたら、ライオンも同じように100部屋に分散すれば「危険度は100%」である。では、シマウマが一団となって移動していたら、もしライオンが分散していると「ライオン1匹にシマウマ100頭」だから、「生き残る確率は99%」になる。では、ライオンも一団でシマウマを捕獲する方法に切り替えたとすると、この場合は「上手くシマウマと遭遇すれば」シマウマは全滅だが、移動の仕方では「ライオンの居ない部屋」に行けるので、安全率を100%に上げられるのだ。最後は確率の問題である。イワシの群れの取る自衛策がこれであることは、みなさんも良くご存知であろう。これが自然界で生き残るための、唯一の理論である。つまり、確率だから「どの個体が生き残るか」は問題外で、個々には必死で生き延びようと努力するのだが、全体としては「パーセンテージの範囲」に収まって、種が保存されるという訳である。ここでも個々は孤独だということが立証されている。
長々とシマウマの話をしたが、要するに「自分の餌の事」を必死に考え、「自分が生き延びる事」に全精力を注ぎ込んでいる状態こそが、生きとし生けるものの「普通」の状態なのである。唯一、人間だけがある時から餌を獲る事に「苦労しなく」なってしまった。「余暇が生まれた」瞬間である。人間は「自由」と引き換えに「本来ある筈の無い『悩み』というもの」を背負い込んだのだ。人間の悩みの殆どは、この「余暇」から生まれていると言っても過言ではない。
しかし、給料が安くて「働いても働いても」楽になれない、という悩みを持っている人は、「これに該当しない」ではないかと思われるかも知れない。だがこれは、生き物の本来の「生存の苦しさ」である。これは悩みとは言わず、「餌が無いという状態」なだけで、給料が上がれば即解決するものなのだ。ただ、その方法が見つけられないだけである。方法は、場所を変えるか職業を変えるか、何れにしても「努力するしかない」。言うならばこれは「生きること」そのものである。
だがある程度収入が上がってくると、「いい家に住みたい」とか「ベンツに乗りたい」とか「美味いものを食べたい」とか、欲が出てくる。何とか食べていける状態だったのが、楽に食べられるようになり、その次は「楽しむことを覚えて」くるのである。戦後の日本人は貧しくて、その日の食べるものも満足に得られないような日々を送っていたという。それでも当時の親達は健気に働き、未来への希望を夢見ながら子供を育てたのである。何故それが可能だったかと言うと、皆生きていることが嬉しかったからなのだ。その日一日を生き延びたということが、何にも代えがたい幸せなのである。勿論日本人全員が、同じような境遇だったことも、当然ある。自分だけが苦しいのではなく、皆んな同じように苦しいのである。我々は孤独じゃない、皆んな一緒なんだという「連帯意識」があった。一種の仲間意識である。ライオンが一団となってシマウマの居場所を探すように(ちょっと違うかな?)。
ところが「余暇」を得て自由になった人間は、することがないので「さらなる欲望を生み」、最高のものを求めて「争奪戦」を繰り広げることになる。人間は、雨風をしのげる三畳の陋屋があれば生活できる筈なのに、競って大邸宅を建てるようになるのだ。何故だろうか。こうしている間にも、多くの人の悩みを増幅させて、不幸な弱者を大量に発生させている。まるで、せっかく持っていた連帯意識を捨てて、自ら「孤独」になろうとしているかのようである。だが、よく見ていると、富裕層は富裕層で連帯しているのである。むしろシマウマの一員として逃げ回っている側から、GPSでシマウマの居場所を見付ける「頭の良いライオン」に鞍替えしたのである。人間は本当の意味で、「孤独になる』ことは出来そうもない。では人間は本当は「皆んな独り」だ、という事と「どうつながるのか」。
一方、不幸に打ちひしがれている人々は不幸かと言えば、実は本来の意味では「不幸では無い」。むしろ「幸せ」である。幸せの判断基準は、彼らは「目の前のことを追いかけている」ことだ。目の前に集中している限り、悩みは限定される。つまり餌が取れるか取れないか、に集約される。これは本来の悩みではない。本当に精神を病むというのは、自分の「内面にどんどんのめり込んでいく時」である。誰かが己の目標に向かって必死に頑張っているのなら、「ああ、頑張っているな」と共感が生まれ、気分も晴れやかになる。といっても共感の範囲は「そこまで」なのだ。個々の人間は、それぞれ自分のことは自分で解決しなければならない。それを考えれば、人間は「本来、孤独であるべき存在」なのだろう、北極グマのような「天性の孤独なハンター」なのだ(私はどちらかというと、無人島で生活しても楽しくやっていける自信があるけど・・・、但しWi-Fiがあれば、だけど)。つまり、「存在は孤独であるが、意識はそれを自覚して無くて、むしろ連帯していると思いこんでいる」みたいな。
話が止めどない方向に行ってしまったので、「聞き上手」になる方法に戻るとしよう。
私はこの年になるまで「共感する」などということは「一切必要ない」と思って生きてきた人間である。この本を買ったのも「ある特殊な状況を改善する必要に迫られて」の事だった(まあ平たく言うと、女性関係である)。著者は、子供と老人は相手が対等な関係だと分かると自分から話し始める、と書いている。それでは女性が話し始めるのも、対等な関係と意識したからなのだろうか。・・・とまあ、肝心なところがよく分からない。
結論:煎じ詰めれば、相手の話しを「よく聞く」ことに尽きる、となった(これじゃ当たり前すぎて読書感想文にもならないじゃん!)。無心になってじっと聞くことで、自然と解決策が見えてくる(なんか陳腐な答えだが、私が出した精一杯の結論である)。共感とは「相手の人間」に興味を持ち、相手の「気持はどうなんだろう」と考えながら話を聞くことだから、こちらが無心になって鏡をのように「相手を反射する分身」になり、ついつい「独り言」をしゃべってしまうくらい「積極的に聞く」ことで、やっと「共感」が生まれるのだ。簡単に言えば、Listen (聞く)と Hear (聽く)の違いである。じっくり Listen していれば、自ずと道は開ける訳だ。思うに女性と仲良くなれない原因は、じっくり相手の話を聞いてあげる姿勢が、私に「まったく感じられなかったから」上手く行かなかったのだ、と結論付けられる(アチャー!)。
よーし、次こそは上手くお付き合いできるように「聞き上手」になってみせるぞ!
追記:今日、テレビで黒川伊保子という AI の専門家が、インタビューを受けていた。彼女は「共感障害」や「夫のトリセツ」や「成熟脳」とかのベストセラー本を、次々と出している、いま気鋭の物理学者である。で、この先生が男と女の脳の違いについて、実に楽しそうに語ったところによると、男は獲物を取るために「危険よりも得られた報酬の方を重視する脳」が出来上がったという。危ないからと言って「危険な場所」に近寄らなければ、当然獲物という報酬を得ることは出来ない訳だ。それに比べて、女は子育てや安全なねぐらを維持するために「出来るだけ危険を避ける脳」を作り上げたという。それで女同士が話し合う情報交換の場では、自然と「どこで何をしていたら危険な目に遭ったか」という、「安全情報」が中心になる。そのためには「危険が迫っていることを、どう感じたか」というプロセスを延々と語ることになる。男は「結果がどうなったか」あるいは「どうやって危険を避けたか」を知りたがる(私は、当然だと思うが・・・)。が、女の情報の中心はそれではなくて、「周囲のどんな変化から危険を察知するか」であったり「どういう時に怖いと思ったか」などの「自分の感情の変化を詳細に説明して」理解を求めるのだ。女性においては「同じ状況になった時、危ないと感じること」が重要な共感である。その結果、女は危ない場所には2度と近づかないように脳に刻み込む。一方、男は同じ状況になった時、「どう動けば助かるのか」の知識を求める。これはつまり、「危ない場所=獲物が取れる可能性が高い場所」だと知っているからである。当然、危ない場所に行っても「危険から脱出できる方法」を知りたいのだ。これでは、男女の間で「共感」するなどは、最初から難しい。まあ、これも頭に入れて、尚且つ「相手が何を考えているのか」を聞き取るように努力して行けば、何れは「話していると楽しい!」となる事、請け合いであろう。
ちなみに、この本の各章は「ワンポイントで上手くいくコツ」を分かりやすく説明しているので、折りに触れ、再度紐解く「Reference 本」的に使えば、最高の味方になると思って間違いないだろう。今度、女性との会話の機会があったら、是非ともこの「読書の勧め」を思い出して、くれぐれも慎重に行動されることを期待しています。
それでは、また。皆さんの成功を祈る!
そう言えば、私なぞはブログで言いたい放題を書きまくって、読者の「数少ないコメント」には全く一顧だにしないという、不遜な態度の「言いっ放し」を通している半端者である。これを機に大いに反省し、しっかり居住まいを正して「拝聴ならぬ拝読仕ろう」と心を決めた。私の先天的に「欠けている部分」を補って、見事に「聞き上手」になるためである。先ずはインプレッションから書いていこう。
本の章立ては短く簡潔なようだ。
1、第一章で「聞き上手は話さない」と書いてある。聞き上手は相槌を打ちながら、相手が気まずくならない雰囲気を醸し出して、「最低30秒以上」は、相手が話し出すのを待つという。これはプロの技術だそうだ。テレビで「朝まで討論」という番組があるが、相手構わず我先に自分の意見をワーワー言い合って、まるで「視聴者は完全無視」と言わんばかりの番組進行をしていて、実に見苦しいの一言である。結局私は一度チラッと見ただけで、その後チャンネルを合わせたことはない(これは教育的指導である)。田原総一朗も巷の評判の割には、まるで「議論というもの」を知らないようだ。こういう人は聞き上手にはなれないらしい。まず、どこかで自分の言いたいことを全部喋ってしまって「自分の胸の内を空っぽにして」から、それから「聞き上手」になる訓練を始めることだ、と著者は言う。耳が痛いねぇ。
2、次の章で著者は「聞くことは疲れる」ものだと言う。確かに興味のない話をベラベラ喋りまくられれば、誰しも疲れてしまうのは無理もない。そもそも興味がないというのが問題だが。そう言えば、音楽でも「聞く者の愚痴を吸収してくれる」かのような、疲れた心を癒やし、思いに寄り添うような楽曲がある。モーツァルトなんか「まさに心を洗い流してくれる最高の音楽」ではないだろうか?!。確かにモーツァルトを聞いていると、つまらない悩みや対人関係の愚痴など「スーッと消えていくような純粋さ」がある。もしかしたら、名曲とは「聞き上手な曲」かも知れないな、と考えた。この「音楽と聞き上手の関係」は、もう一度別の機会に考えても良さそうな面白い視点だと思う。
著者は、全幅の信頼を寄せて何もかも「洗いざらい」話すと、人の心は無防備になると言う。そう言えば普段人と接している時、我々は「鎧を身に着けて話している」とも言える。以前、小泉進次郎氏が婚約発表の記者会見で「鎧を脱いでも良いんだと思った」と発言していたのを思い出したが、自分の素を曝け出すというのは、政治家は特に難しいのかも知れない。まあ、彼の場合はイメージ先行で、実態とのギャップが激しいから「なおさら」だとも言えるが。そこへいくと私などは「戦う相手もいない」お気楽な余生だから、そもそも「鎧など普段から脱ぎっぱなし」の素の生活である。それでも、誰かと会話する時には「知らず識らず、身構えている」かも知れないと思うと、よっぽど「注意しなければ」聞き上手にはなれないということだろう。まずは聞く姿勢が大事のようだ。
3、話を聞く時には、「相槌」が有効だと言う。相槌は良く聞く単語だが、では相槌を上手に打てるかというと意外と心もとない。これには国民性が大きく関係しているという説もある。例えばディベートという遊びが欧米では盛んに行われていて、小さい時から欧米人は「議論すること」をしっかり身につけている。それに比べて、日本人は議論することが大の苦手で、すぐに「個人攻撃の応酬になる」というあたりが、決定的な文化の違いだろう。議論は相手の意見と自分の意見を戦わせるのが目的で、個人と個人を戦わせる場ではないというのが常識なのだが、どうも日本人は「個人の意見を、即人格と結びつけて捉える癖」があるから厄介だ。このあたりは、聞き上手になる上で「まず最初に乗り越えるべきハードル」だろう。議論と人格を分ける、これ大事なんだが案外できないものだよね(反省!)。
と、こういう調子で「分かりやすいポイント」がどんどん続く。例えば、
○「分からない」が聞き上手のコツとか、
○「相槌の打ち方」で深くも浅くもなる会話とか、
○「聞き上手は避雷針」とか、
○「お互いに愚痴をサラッと流す」ことで人間関係が上手くいくとか、
○話し手が質問する時は、必ず「話し手に関連すること」を聞いてくるとか、
要するに、聞き上手になるには「これこれの点に注意すること」というスタイルで、31のテクニックが箇条書きで進んでいく。
この時ふと思い出したのが、前の会社の上司だった「2つ上の先輩Y氏」のことである。温和な性格のY氏は、私のどんな話でも「私が話し終わるまで聞いてくれ」て、その度に「相槌をいれながら楽しそうに笑ってくれた」のである。今思えば、まさに聞き上手のお手本のような人だった。そんな彼が、一度だけ真顔になって怒った事があった。それは彼が頼んできた売上のデータ集計表を、私が「それを見る人が、間違った方向に導かれかねない」という理由で断ったときである。以前には「頼まれてもいない」のに作成して、その時は一定の効果があった集計表なのだが、今回は「出さないほうがいいな」と私なりに判断したのだった。彼は色々と理屈を並べて資料を要求したのだが、私が「出さないほうが良い理由」をいくら説明しても分かってくれず、とうとう最後には怒って部屋を出ていってしまった。多分、すでに誰かに作成することを約束していたのかも知れない。後にも先にも、彼が怒ったのはこの時だけである。結局私は、後で要求通りの資料を作って彼に渡したが、どうせ渡すなら「黙ってすんなり作ってあげたら良かったな」、と後悔した。これなどは「聞き上手になっていなかった為」に逆に相手を説得できなかった、という残念な例である。今は、私の「聞くテクニックが不足」していたんだと理解していて、そのY氏とは「従前通りの良い関係を保っている」と私は思っている。まあ本音のところは分からないけど・・・。
著者はプロカウンセラーなので「利害関係がない」から言えることなのだが、いわゆる「聞き上手」と、単なる「イエスマン」との違いを知った上で、より高度なテクニックを覚えなければいけない、という教訓である。
このようにして、著者は「聞き上手」と言われるものの色々な側面を書き出していくのだが、ある一定の時間だけ「意図して聞き上手になる」というのではなく、普段から聞き上手であるためにはどうすれば良いのだろう。つまり意図的に演出した「聞き上手」ではなく、もっと「自然に振る舞って」しかも聞き上手だと言われるためには「どういう人になれば」良いのだろうか?
段々、理想の人間像への道筋が見えてきた。人間は本来「孤独な生き物」である。たぶん生物の進化の過程で人間に「自意識と心」が生まれ、本来は必要のない「ふと自分を振り返る」ような瞬間が出来てきたのだ。これは言ってみれば「現代病」である。元々人間は動物である。目の前の出来事に対応しながら、餌を求めて動き続ける存在なのだ。餌を食べて休息し、子孫を残してまた餌を求める。この繰り返しで一生を終わる。それには「意味も目的も無い」。ただ目の前のやらねばならない事を、粛々と行うだけで精一杯なのだ。だが、進化しすぎた人間は「余暇を楽しむ」余裕が出来て、その営みに「意味」を求めるようになった。そして同じような悩みを共有する友人や配偶者を得ることで、つまり「悩みを共感する」ことで、悩みから救われるようになったのである。これを進化と呼ぶかどうかは疑問の余地があるが、「共感できる相手」を必要としていることには間違いがない。
こう考えた時、救いは「悩みがあるから」求められると言える。悩みがなければ「救いも必要ない」のは自明であろう。そこで私は考えた。「共感」とは、人類が作り出した「永遠の個人からの非現実的な脱出」である(どういう意味?)。簡単に言うと、「独りじゃないんだ」って、ただひたすら「信じる」ことだ。この気持を持っていれば、誰でも幸せになれる筈である。
だけど、独りじゃないって、「現実には、有り得ない」じゃないですか。物心がつく前の赤子は別として、「自我が芽生えたら」その後は、「死ぬまで独り」を続けるしかないのが人生なんですよ。
ここから導き出される結論は逆説的ではあるが、悩みをなくす唯一の方法は「目の前のことに集中し、自分の内面は忘れる」ことである。つまり「動物=ケダモノになれ!」、である(皆さん、勘違いしないように)。究極の悟りの境地は、言うならば「無人島で餌を探しながらその日を暮らす」状態となる。そう言えば、お寺の高僧も「無心」というのが最高の境地だと言っていた。では無心とは何か、それは日々早朝から日没まで間断なく続く勤行に従うことに他ならない。やることが多ければ、悩んでいる時間がなくなるのは道理である。どうやって餌を取るかに着目してみても、これはこれで「頭をフル回転させないと出来ない作業」である。もし貴方が無人島に住んでいるとして、偶然にも「もう一人」人間に出会ったと仮定しよう。そしたら今度は協力して、もっとデカい獲物を効率よく「共同で獲る」ことを考えるだろう。共感などは求めはしない。
ここでちょっと脇道に逸れるが、例えば100頭のシマウマと100頭のライオンが、100部屋のホテルに泊まっているとする。シマウマがどういう行動を取れば一番「種として生き残る」事ができるか、を考えてみよう。もしシマウマが100部屋に分散していたら、ライオンも同じように100部屋に分散すれば「危険度は100%」である。では、シマウマが一団となって移動していたら、もしライオンが分散していると「ライオン1匹にシマウマ100頭」だから、「生き残る確率は99%」になる。では、ライオンも一団でシマウマを捕獲する方法に切り替えたとすると、この場合は「上手くシマウマと遭遇すれば」シマウマは全滅だが、移動の仕方では「ライオンの居ない部屋」に行けるので、安全率を100%に上げられるのだ。最後は確率の問題である。イワシの群れの取る自衛策がこれであることは、みなさんも良くご存知であろう。これが自然界で生き残るための、唯一の理論である。つまり、確率だから「どの個体が生き残るか」は問題外で、個々には必死で生き延びようと努力するのだが、全体としては「パーセンテージの範囲」に収まって、種が保存されるという訳である。ここでも個々は孤独だということが立証されている。
長々とシマウマの話をしたが、要するに「自分の餌の事」を必死に考え、「自分が生き延びる事」に全精力を注ぎ込んでいる状態こそが、生きとし生けるものの「普通」の状態なのである。唯一、人間だけがある時から餌を獲る事に「苦労しなく」なってしまった。「余暇が生まれた」瞬間である。人間は「自由」と引き換えに「本来ある筈の無い『悩み』というもの」を背負い込んだのだ。人間の悩みの殆どは、この「余暇」から生まれていると言っても過言ではない。
しかし、給料が安くて「働いても働いても」楽になれない、という悩みを持っている人は、「これに該当しない」ではないかと思われるかも知れない。だがこれは、生き物の本来の「生存の苦しさ」である。これは悩みとは言わず、「餌が無いという状態」なだけで、給料が上がれば即解決するものなのだ。ただ、その方法が見つけられないだけである。方法は、場所を変えるか職業を変えるか、何れにしても「努力するしかない」。言うならばこれは「生きること」そのものである。
だがある程度収入が上がってくると、「いい家に住みたい」とか「ベンツに乗りたい」とか「美味いものを食べたい」とか、欲が出てくる。何とか食べていける状態だったのが、楽に食べられるようになり、その次は「楽しむことを覚えて」くるのである。戦後の日本人は貧しくて、その日の食べるものも満足に得られないような日々を送っていたという。それでも当時の親達は健気に働き、未来への希望を夢見ながら子供を育てたのである。何故それが可能だったかと言うと、皆生きていることが嬉しかったからなのだ。その日一日を生き延びたということが、何にも代えがたい幸せなのである。勿論日本人全員が、同じような境遇だったことも、当然ある。自分だけが苦しいのではなく、皆んな同じように苦しいのである。我々は孤独じゃない、皆んな一緒なんだという「連帯意識」があった。一種の仲間意識である。ライオンが一団となってシマウマの居場所を探すように(ちょっと違うかな?)。
ところが「余暇」を得て自由になった人間は、することがないので「さらなる欲望を生み」、最高のものを求めて「争奪戦」を繰り広げることになる。人間は、雨風をしのげる三畳の陋屋があれば生活できる筈なのに、競って大邸宅を建てるようになるのだ。何故だろうか。こうしている間にも、多くの人の悩みを増幅させて、不幸な弱者を大量に発生させている。まるで、せっかく持っていた連帯意識を捨てて、自ら「孤独」になろうとしているかのようである。だが、よく見ていると、富裕層は富裕層で連帯しているのである。むしろシマウマの一員として逃げ回っている側から、GPSでシマウマの居場所を見付ける「頭の良いライオン」に鞍替えしたのである。人間は本当の意味で、「孤独になる』ことは出来そうもない。では人間は本当は「皆んな独り」だ、という事と「どうつながるのか」。
一方、不幸に打ちひしがれている人々は不幸かと言えば、実は本来の意味では「不幸では無い」。むしろ「幸せ」である。幸せの判断基準は、彼らは「目の前のことを追いかけている」ことだ。目の前に集中している限り、悩みは限定される。つまり餌が取れるか取れないか、に集約される。これは本来の悩みではない。本当に精神を病むというのは、自分の「内面にどんどんのめり込んでいく時」である。誰かが己の目標に向かって必死に頑張っているのなら、「ああ、頑張っているな」と共感が生まれ、気分も晴れやかになる。といっても共感の範囲は「そこまで」なのだ。個々の人間は、それぞれ自分のことは自分で解決しなければならない。それを考えれば、人間は「本来、孤独であるべき存在」なのだろう、北極グマのような「天性の孤独なハンター」なのだ(私はどちらかというと、無人島で生活しても楽しくやっていける自信があるけど・・・、但しWi-Fiがあれば、だけど)。つまり、「存在は孤独であるが、意識はそれを自覚して無くて、むしろ連帯していると思いこんでいる」みたいな。
話が止めどない方向に行ってしまったので、「聞き上手」になる方法に戻るとしよう。
私はこの年になるまで「共感する」などということは「一切必要ない」と思って生きてきた人間である。この本を買ったのも「ある特殊な状況を改善する必要に迫られて」の事だった(まあ平たく言うと、女性関係である)。著者は、子供と老人は相手が対等な関係だと分かると自分から話し始める、と書いている。それでは女性が話し始めるのも、対等な関係と意識したからなのだろうか。・・・とまあ、肝心なところがよく分からない。
結論:煎じ詰めれば、相手の話しを「よく聞く」ことに尽きる、となった(これじゃ当たり前すぎて読書感想文にもならないじゃん!)。無心になってじっと聞くことで、自然と解決策が見えてくる(なんか陳腐な答えだが、私が出した精一杯の結論である)。共感とは「相手の人間」に興味を持ち、相手の「気持はどうなんだろう」と考えながら話を聞くことだから、こちらが無心になって鏡をのように「相手を反射する分身」になり、ついつい「独り言」をしゃべってしまうくらい「積極的に聞く」ことで、やっと「共感」が生まれるのだ。簡単に言えば、Listen (聞く)と Hear (聽く)の違いである。じっくり Listen していれば、自ずと道は開ける訳だ。思うに女性と仲良くなれない原因は、じっくり相手の話を聞いてあげる姿勢が、私に「まったく感じられなかったから」上手く行かなかったのだ、と結論付けられる(アチャー!)。
よーし、次こそは上手くお付き合いできるように「聞き上手」になってみせるぞ!
追記:今日、テレビで黒川伊保子という AI の専門家が、インタビューを受けていた。彼女は「共感障害」や「夫のトリセツ」や「成熟脳」とかのベストセラー本を、次々と出している、いま気鋭の物理学者である。で、この先生が男と女の脳の違いについて、実に楽しそうに語ったところによると、男は獲物を取るために「危険よりも得られた報酬の方を重視する脳」が出来上がったという。危ないからと言って「危険な場所」に近寄らなければ、当然獲物という報酬を得ることは出来ない訳だ。それに比べて、女は子育てや安全なねぐらを維持するために「出来るだけ危険を避ける脳」を作り上げたという。それで女同士が話し合う情報交換の場では、自然と「どこで何をしていたら危険な目に遭ったか」という、「安全情報」が中心になる。そのためには「危険が迫っていることを、どう感じたか」というプロセスを延々と語ることになる。男は「結果がどうなったか」あるいは「どうやって危険を避けたか」を知りたがる(私は、当然だと思うが・・・)。が、女の情報の中心はそれではなくて、「周囲のどんな変化から危険を察知するか」であったり「どういう時に怖いと思ったか」などの「自分の感情の変化を詳細に説明して」理解を求めるのだ。女性においては「同じ状況になった時、危ないと感じること」が重要な共感である。その結果、女は危ない場所には2度と近づかないように脳に刻み込む。一方、男は同じ状況になった時、「どう動けば助かるのか」の知識を求める。これはつまり、「危ない場所=獲物が取れる可能性が高い場所」だと知っているからである。当然、危ない場所に行っても「危険から脱出できる方法」を知りたいのだ。これでは、男女の間で「共感」するなどは、最初から難しい。まあ、これも頭に入れて、尚且つ「相手が何を考えているのか」を聞き取るように努力して行けば、何れは「話していると楽しい!」となる事、請け合いであろう。
ちなみに、この本の各章は「ワンポイントで上手くいくコツ」を分かりやすく説明しているので、折りに触れ、再度紐解く「Reference 本」的に使えば、最高の味方になると思って間違いないだろう。今度、女性との会話の機会があったら、是非ともこの「読書の勧め」を思い出して、くれぐれも慎重に行動されることを期待しています。
それでは、また。皆さんの成功を祈る!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます