1、奈良県立考古学研究所
飛鳥万葉とくれば「橿原神宮」と誰しもが考えることだが、私が10数年前に飛鳥を訪れた時には神宮には寄らなかった。私の趣味は古代史探求だが、神武天皇の陵がどこにあるかには「全く興味なし」である。だいたい亡くなった人が何処に葬られているかなどということは、その人に個人的な「つながりまたは精神的共感」を持っていない場合は、ただの古墳と変わりはない。それに神武天皇陵とされているのが畝傍山の麓だから、取ってつけたような感は否めないと思っている。どこまで「当時の人々が尊宗していたか」は大いに疑問というか、「ホントにあそこが神武天皇の墓なの?」というのが正直な気持である。まあ、実在すら議論されているのだから、無理もないだろう。だから私は橿原神宮はスルーすることにしている。それよりも、近くにある「奈良県立考古学研究所」(旧大和歴史館)には一度時間がある時にじっくりと収蔵品を見て、学芸員の説明など聞くとかしてみたい。多分、びっくりするような知見が得られるんじゃないかな。本来私が奈良移住を考えるようになった理由の一つには、こういう研究の場に足繁く通って、日進月歩の考古学の成果をこの目で確かめたい、というのもある。それに展示品をただ見ているだけでなく、学芸員と「古代史の話で盛り上がって」みるなど、近くに済んでいればこそ出来ることがあるんじゃないだろうか。飛鳥はまだまだ知らないことだらけの「未知の国」である。
2、久米寺
畝傍山の南側に久米寺がある。近くの133号線に「久米河原東」という名の交差点が有り、西側を高取川が流れていることから、この辺りは昔河原が広がっていたと推測される。久米寺は聖徳太子の弟・来目皇子の創建だそうだが、何でもかんでも聖徳太子というのはちょっとどうかと思う。そう言えば今昔物語で有名な久米の仙人が、思わず見とれて空から落ちたという女性はこの辺りの河原で洗濯していたのだろうか。仙人の見たという「女人の美しい脛」は私の想像では、脛などではなく「太もも」だと思っているが如何?。まあ、田舎の農家の女性のことだから、日頃脛くらいは仙人も見慣れている筈である。それが思わず雲から乗り出して覗いてしまったというのだから、ここはやはり「太もも、あるいはもっと奥」と考えるべきではないか(どうでもいいだろ!)。明治末年に「薄田泣菫」が久米寺を訪れて、龕の中の仙人像を見て「やらしい手付きをしてる」と書き残しているそうだから、昔からこの寺のイメージは「エロ爺」の寺ということみたいだ。微笑ましいエピソードというよりは、ただ「それしかない」というのが可哀想である。まあ、わざわざ見に行くほどでもないので、ここもスルーしよう。
3、石川池
10数年前に飛鳥巡りをしようと思い立ち、土日に掛けて「ぐるっと回った」ことがあった。その時は出張の帰りに大阪から奈良新大宮のビジネスホテルに一泊し、翌日近鉄で橿原神宮駅西口で電車を降りて、駅前すぐの「レンタサイクル」でママチャリを借りた。確か500円だったと記憶している(やすかった〜)。まず近鉄の線路下をくぐって東口に出て、駅前の大通りを「飛鳥の古代世界」へと颯爽と走り出した。そしてふと本屋を見つけると「そうだ、地図がいるなぁ」と思い返して、地図が見やすい本を買った。私はお寺やグルメに興味はないので、地図がしっかり乗っている本が良いのである。買った本を自転車の前カゴに投げ入れて、早速出発だ!。しばらく走ると、行く手に大きな池が目に入る。これが石川池である。この辺は「大軽」といって、万葉集でも和歌に歌われているほど栄えた場所なのだ。ちょっと先には、応神天皇の軽島豊明宮阯がある(と堀内民一は書いているがこの界隈は遺跡だらけで、いちいち行っていては時間が無くなってしまうので、全部スルー)。今日は飛鳥を一周するのだからと自転車を飛ばし、さらに南を目指した。ところが道は急な上り坂になっていて、ギアなしママチャリで漕いでいたらバテてしまって「ギブアップ」と相なった。自転車を降りてゼイゼイと一休みし、何とか押しながら坂を登り切ったのである。観光巡りするにも体力がいるのだ。勿論、それから10数年が経ち、脳梗塞も経験して、今では相当に「体力が落ちている筈」。これから奈良のど田舎に移住して、果たして思うように古代史を探訪できるだろうか?(ちょっと不安がよぎる)。
4、甘樫丘
披露困憊で坂を上ると右手に欽明天皇檜前坂合陵・前方に国営飛鳥歴史公園と中尾山古墳に高松塚古墳があり、その先が文武天皇檜前安古岡上陵だ。私は「鬼の俎板」や「天武持統天皇陵」の前で左に曲がって亀石の所をさらに左折して、最初の目的地である甘樫丘へと向かった。曲がらずにまっすぐ行けば、河原寺・弘福寺・橘寺から石舞台古墳に至る「ゴールデンルート」だし、途中で左折すれば飛鳥板葺宮跡や酒船石を見ることも出来る。まあ、見どころは山ほどあるが取り敢えずは甘樫丘に上ることにしよう。途中の登り口で自転車を降り、細い山道を「えっちらおっちら」登っていくと、すぐ頂上の開けた場所に行き着いた。そこはちょっとした広場になっていて、要するにただの「展望台」でしかない(他に何にも無いから、ある意味凄いとも言える)。だが私のような古代史好きの変人には、願ってもない「古代を見渡せる場所」なのだ。眼下に見える景色の全てが、古事記に出てくる地名「そのまま」が残っていることに驚きと感動を覚えたのである。やっぱり土地の名前というものは、歴史を保存する「唯一の指標」だと確信した。山や川が古代と同じ姿を今も見せているのと同じように、地名も「凍結保存」するべきである。そんなことを考えながら望遠鏡であちこち見て小一時間過ごし大満足した私は、丘の麓の「農家の副業で開いているような」喫茶店で優雅にコーヒーを飲み、それから自転車を取りに戻って気持ちよい青空の下、飛鳥板葺宮後に向かった。
(続く)
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