この作品の味わいは、第一には一人称の語り口で描写される鄙びた田舎の風景と自然の息吹が背景となっている。そしてその中で主人公と交流する旅芸人一行の生活の端々や素朴で純情な少女の行動などを淡々と描いて、特に何かの事件もなく平穏な日常を過ごしながら物語は進んでゆく。
主人公は休暇を利用して伊豆の天城越えから下田へと旅行している学生だ。小説は大学生である私の「ある年の旅日記」という体裁である。川端康成の特徴は(と言うほど彼の作品を読んでいる訳ではなく、言うなら「これ一作だけ」だがあえて私の意見を書くとしたら)登場人物を描くのに余り細かな心理描写はせずに、主人公の目を通して誰でも分かる程度の「普通の受け取り方」を書くのに徹している点だろうと思う。これはこの小説が外から眺めているような生活感のない感覚と相まって、表現が一層「旅の思い出感」をさらりと演出していることに如実に表れているようだ。
では、何で単なる旅日記の小説が川端康成の代表作の一つに挙げられているかと言えば、それは旅芸人の少女と私の間に芽生えていた「かも知れない」心の揺れを、一幅の絵画に見事に留めた映像の美しさ、と言えるのではないかと私は思った。
下田から東京へ帰る船で、主人公は遠く港の突堤に立って手を振る少女の姿を見る。少女の気持ちは万感の想いを込めて・・・と言いたい所だが、そこは読者の想像に委ねられているのだ。そして、それを眺める主人公はどうかと言うと、これも曖昧な気分で見ているだけである。読者が「ああ、何とかならないの?」ってヤキモキすることは、作者は狙っている訳では無い。少女の想いを初恋と言えばちょっと言い過ぎだろう。それは友達以上で恋人未満の宙ぶらりん状態であり、本物の恋への入口にやっと立ったばかりである。
小説は私という語り手を通して、伊豆の踊子である少女の「淡い、初恋に似た感情」を見事に描いてみせ、そしてその映像を読者の脳裏に青春の1頁として焼き付けたまま終わるのだ。まさに西部劇シェーンのラストシーンのように、読む者の記憶に残る映画の1シーンである。
そう言えば昔、吉永小百合と高橋英樹の主演で見た記憶があるがやはり実写版の映画だと妙に生々しくって、あの川端康成の描く「透明な映像美」にはとても及ばないのである。というか、当時は吉永小百合の露天風呂シーンを期待して目を皿のようにしていた(多分、高校生の頃じゃないかな?)。純然たる文学作品にAVモドキの入浴シーンを求めるのはそもそも無理があるのだが、そんな事お構い無しで必死で見ていたと思う。まあ、青春の1頁です(小百合さん、ごめんなさい!)。
とにかく私は甘酸っぱい空気を胸一杯に吸い込んで、少女の主人公への一途な想いを、モノクロの1枚の映像に静かに閉じ込めて脳裏に焼き付けた。誰にでもある何気ない或る日の旅の記憶。・・・だがそれは一人の愛すべき少女の存在で永遠のものに昇華されるのだ。
川端康成、いい仕事してますねぇ!
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