僕がバックハウスと出会ったのは古いCDだった。いつどんな経緯で買ったかは分からない。それはカラヤンがベルリンフィルでブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏するグラモフォンのCDである。音質はザーッとノイズの入った、程度の悪いアナログ盤のもの。名盤だからというわけでもない。ブラームスは、ゼルキン=セルのクリーブランド響版をオーブンリールのテープに録音して擦り切れるほど聴いた。高校生の受験の合間にクラシックを聴いた中で、ワイセンベルクのショパンP協1・2とベーム&WPOのモーツァルト40番41番のカップリングと、そしてゼルキンが愛聴盤ベスト3なのだった。このCDはチェロの独奏を聴くために買ったようなものだ。バックハウスというよりカラヤンを聴いていた、そんな程度である。
それから大学のオーケストラ部に入り、ビオラを勉強、合宿をしたり弦楽四重奏団を結成して(ビオラをやる人が少なくて、弦楽合奏は上手い下手関係なく入れた)、クラシックに熱中した。そんな中で好みがはっきり出るのが、ピアノである。楽器の中でピアノだけは、奏者の上手い下手・弾き方の好き嫌いが私には分かった。バックハウスは評価するほどの興味ある対象ではなかった。鍵盤の獅子王という称号や圧倒的なテクニックといったクラシックファンの評価も、へそ曲がりの自分には逆効果だったようだ。それが30年して突然、いつも聞いているインターネットラジオで再会した。ベートーヴェンの29番ハンマークラビア、この長大で余り面白くもないソナタを聴いている時、ふと案外といいなと思ったのだ。それが私とバックハウスの(2度目の)出会いだった。
しばらくしてショパンにも飽きていた私は、気晴らしにバックハウスのディアベリ変奏曲を聴いてみた。始まりは素っ気ない、淡々と弾いているように楽譜の譜面通りの音の連続である。だが聴いていくうちに、完璧なタッチと正確無比なフレージングが当たり前のようになる瞬間、やっとバックハウスの世界が見えてくる。バックハウスはただ速く弾くだけのピアニストではない。そんなことは分かっているつもりだったが、ついレコードを聴く時に頭をよぎってしまい、そのテクニックの余りの凄さに圧倒され脱帽するだけで、彼の本当の素晴らしさに気付くまで聴き込むことが出来なかったのである。もしかしたらバックハウス自身も、自分のピアニストとしての実力に気がついていなかったかも知れない。
ベートーヴェンはどちらかというと、生きる喜びや恋の美しさを感じさせてくれる作曲家ではない。古典派の総決算をモーツァルトが成し遂げ、人間的なまたは神的なドラマをレシタティーボを交えて歌い上げるオペラの傑作をいくつも書いたのに比べて、ベートーヴェンはレオノーレを一曲書いただけで(しかも駄作)やめてしまった。ベートーヴェンにはオペラは書けなかったのだ、彼の限界である。その代わり、ピアノ曲と弦楽四重奏曲には特殊な一時代を築いた。ベートーヴェンのように「メロディを作る能力が無い大作曲家」を、私は他に知らない。バッハ、ショパン、そしてモーツァルトはみな偉大なメロディメーカーである。有名なメロディの10や20は、すぐに出てくるだろう。プッチーニも私の好きなメロディメーカーのひとりだ。だがベートーヴェンは違う。難解だとか言うけれど、私は音楽としては二流だと思う。
バックハウスのイメージは少なからずベートーヴェンの特殊な音楽のイメージが重なって、モチーフを展開し複雑化し勢いを増して一気に解放するムーブメントの繰り返しの音楽を、持ち前のテクニックで減速せずに弾ききる爆発的演奏力、その魅力で売り出した。しかしバックハウスは「スローな楽曲で真の魅力を示す」ピアニストである。間違いを恐れずに言うなれば、「スローに聴こえる」メロディアスな部分に本当のピアニストとしての資質を感じるのだ。録音は古いがカラヤンとの息も合って、至高の境地を現出している。さすがバックハウス、見事だ。と、ここまで書いてゼルキン盤も聴きたくなった。聴き比べである。
レコードの無い時代には思いもよらなかったことが、いとも簡単に我が家の貧弱なステレオセットでできてしまう。バックハウス盤を聴いた後に聴くゼルキン盤は、涙もろい私をさらに涙もろくしたかのようにブラームスの「黄昏」を奏でる。ジョージ・セルのクリーブランド響は絶え入るかのようなチェロのメロディに寄り添うように哀しい愛の歌を歌い、それに答えるゼルキンのピアノが切ない吐息を切れ切れに漏らしたかと思う瞬間、微かな空白を置いて第4楽章のフィナーレへなだれ込んでいく。ブラームスのオーケストレーションはモーツァルトの端正荘重なスコアと異なり、ベートーヴェンの構成力に厚みを加えた和声楽の頂点とも言える、押し出し重視の書き方である。プロレスラーが死闘を制して勝者の雄叫びを上げ、サッカー選手がゴールに逆転のシュートを叩き込んでガッツポーズを決める、まさにドラマチックな勝利を音楽で奏でる。正にロマン派の申し子である。ゼルキンは、正座してブラームスと向き合っているかのように、粛々とピアノに向かう。心には熱き血潮を秘めて。
ことブラームスのピアノ協奏曲に関しては、バックハウスとゼルキンの勝負はゼルキンの勝ちとしなくてはなるまい。名盤中の名盤である。私はブラームスの交響曲も好きだし、バイオリン協奏曲も好きだ。彼のグングン押し出す大迫力の戦闘モードは、ゲーム音楽にも通じる快感がある。ゼルキンとセルは、ブラームスの最上の演奏であり続けるだろう。
追加 : ジョージ・セルは、ダヴィッド・オイストラフとブラームスのバイオリン協奏曲を出しているが、これも名盤の誉れ高い一枚である。しかしギドン・クレーメルの鬼気迫る演奏を映像で見ると、ブラームスの協奏曲の醍醐味はパフォーマンスにあると思わざるをえない。最近、五嶋龍のハイレゾ音源でブラームスのバイオリン協奏曲を聴いたが、圧倒的なクオリティの高さにクラっと来た。もはや「アナログでバックハウス」の時代では無いのかも知れない。昭和のテレビを綺麗だと思っていたら、今や4Kの精緻な映像を大画面で見られるのである。音楽も「生よりもっと際立ったデジタル音」が主流になり、コンサートを聴くなんて事がなくなってしまう、そんな日が近い気がする。そうなったらなったで、ますます音楽が遠くなるなぁ。
それから大学のオーケストラ部に入り、ビオラを勉強、合宿をしたり弦楽四重奏団を結成して(ビオラをやる人が少なくて、弦楽合奏は上手い下手関係なく入れた)、クラシックに熱中した。そんな中で好みがはっきり出るのが、ピアノである。楽器の中でピアノだけは、奏者の上手い下手・弾き方の好き嫌いが私には分かった。バックハウスは評価するほどの興味ある対象ではなかった。鍵盤の獅子王という称号や圧倒的なテクニックといったクラシックファンの評価も、へそ曲がりの自分には逆効果だったようだ。それが30年して突然、いつも聞いているインターネットラジオで再会した。ベートーヴェンの29番ハンマークラビア、この長大で余り面白くもないソナタを聴いている時、ふと案外といいなと思ったのだ。それが私とバックハウスの(2度目の)出会いだった。
しばらくしてショパンにも飽きていた私は、気晴らしにバックハウスのディアベリ変奏曲を聴いてみた。始まりは素っ気ない、淡々と弾いているように楽譜の譜面通りの音の連続である。だが聴いていくうちに、完璧なタッチと正確無比なフレージングが当たり前のようになる瞬間、やっとバックハウスの世界が見えてくる。バックハウスはただ速く弾くだけのピアニストではない。そんなことは分かっているつもりだったが、ついレコードを聴く時に頭をよぎってしまい、そのテクニックの余りの凄さに圧倒され脱帽するだけで、彼の本当の素晴らしさに気付くまで聴き込むことが出来なかったのである。もしかしたらバックハウス自身も、自分のピアニストとしての実力に気がついていなかったかも知れない。
ベートーヴェンはどちらかというと、生きる喜びや恋の美しさを感じさせてくれる作曲家ではない。古典派の総決算をモーツァルトが成し遂げ、人間的なまたは神的なドラマをレシタティーボを交えて歌い上げるオペラの傑作をいくつも書いたのに比べて、ベートーヴェンはレオノーレを一曲書いただけで(しかも駄作)やめてしまった。ベートーヴェンにはオペラは書けなかったのだ、彼の限界である。その代わり、ピアノ曲と弦楽四重奏曲には特殊な一時代を築いた。ベートーヴェンのように「メロディを作る能力が無い大作曲家」を、私は他に知らない。バッハ、ショパン、そしてモーツァルトはみな偉大なメロディメーカーである。有名なメロディの10や20は、すぐに出てくるだろう。プッチーニも私の好きなメロディメーカーのひとりだ。だがベートーヴェンは違う。難解だとか言うけれど、私は音楽としては二流だと思う。
バックハウスのイメージは少なからずベートーヴェンの特殊な音楽のイメージが重なって、モチーフを展開し複雑化し勢いを増して一気に解放するムーブメントの繰り返しの音楽を、持ち前のテクニックで減速せずに弾ききる爆発的演奏力、その魅力で売り出した。しかしバックハウスは「スローな楽曲で真の魅力を示す」ピアニストである。間違いを恐れずに言うなれば、「スローに聴こえる」メロディアスな部分に本当のピアニストとしての資質を感じるのだ。録音は古いがカラヤンとの息も合って、至高の境地を現出している。さすがバックハウス、見事だ。と、ここまで書いてゼルキン盤も聴きたくなった。聴き比べである。
レコードの無い時代には思いもよらなかったことが、いとも簡単に我が家の貧弱なステレオセットでできてしまう。バックハウス盤を聴いた後に聴くゼルキン盤は、涙もろい私をさらに涙もろくしたかのようにブラームスの「黄昏」を奏でる。ジョージ・セルのクリーブランド響は絶え入るかのようなチェロのメロディに寄り添うように哀しい愛の歌を歌い、それに答えるゼルキンのピアノが切ない吐息を切れ切れに漏らしたかと思う瞬間、微かな空白を置いて第4楽章のフィナーレへなだれ込んでいく。ブラームスのオーケストレーションはモーツァルトの端正荘重なスコアと異なり、ベートーヴェンの構成力に厚みを加えた和声楽の頂点とも言える、押し出し重視の書き方である。プロレスラーが死闘を制して勝者の雄叫びを上げ、サッカー選手がゴールに逆転のシュートを叩き込んでガッツポーズを決める、まさにドラマチックな勝利を音楽で奏でる。正にロマン派の申し子である。ゼルキンは、正座してブラームスと向き合っているかのように、粛々とピアノに向かう。心には熱き血潮を秘めて。
ことブラームスのピアノ協奏曲に関しては、バックハウスとゼルキンの勝負はゼルキンの勝ちとしなくてはなるまい。名盤中の名盤である。私はブラームスの交響曲も好きだし、バイオリン協奏曲も好きだ。彼のグングン押し出す大迫力の戦闘モードは、ゲーム音楽にも通じる快感がある。ゼルキンとセルは、ブラームスの最上の演奏であり続けるだろう。
追加 : ジョージ・セルは、ダヴィッド・オイストラフとブラームスのバイオリン協奏曲を出しているが、これも名盤の誉れ高い一枚である。しかしギドン・クレーメルの鬼気迫る演奏を映像で見ると、ブラームスの協奏曲の醍醐味はパフォーマンスにあると思わざるをえない。最近、五嶋龍のハイレゾ音源でブラームスのバイオリン協奏曲を聴いたが、圧倒的なクオリティの高さにクラっと来た。もはや「アナログでバックハウス」の時代では無いのかも知れない。昭和のテレビを綺麗だと思っていたら、今や4Kの精緻な映像を大画面で見られるのである。音楽も「生よりもっと際立ったデジタル音」が主流になり、コンサートを聴くなんて事がなくなってしまう、そんな日が近い気がする。そうなったらなったで、ますます音楽が遠くなるなぁ。
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