人間には二種類のタイプがある。一つは働いて価値を生み出して報酬を得る人。もう一つは働かずに金銭を得ようとする人。後者は犯罪者予備軍である。賭け事にも幾つかの種類・段階があるが、何れも働かずに金銭を得ようとする。つまり心理的には犯罪者である。
賭け事には、暇つぶしにする場合がある。暇つぶしであるから、より面白く興奮する勝負があればそちらにシフトする。例えば野球の試合が無い時は「する事が無いから、賭け事をして暇つぶしをする」と言うようなものである。暇つぶしであるからそれなりの少額であり、勝っても負けても笑って済ませる程度。これはゲームだという人がいるかも知れないが、お金を目的として賭けているのだから、額は少なくても賭博である。宝クジもこのカテゴリーに入るし、競馬や競輪もそうである。つまりは簡単に言うと、宝クジを買う人は犯罪者ということになる。
また、勝負をより面白くする為にする場合がある。ただ駆けっこをするのは子供だけで、大人になると何かちゃんとした結果が欲しくなる。野球で言えば基本的には甲子園にでて優勝を目指すし、プロになれば年俸を上げるために頑張ることになる。基本がスポーツであるから記録や勝利がそのモチベーションになるのだが、毎日モチベーションを高く持ち続けるのは余り勝負に関わらない普通の選手には難しい。そこで本筋とは関係ないが、賭け事を持ち込むことでモチベーションを維持し、少ないながらも賭け金を得るという楽しみを「仕事の喜びに追加して」行う。これは本業の穴埋めに行っているのだから、本業で大活躍すれば所詮賭け事などよりもっと多くの評価と給料が貰えるので、二流選手に特有のものとも言える。賭け事の特徴は、努力と結果が一致しない事である。
暇つぶしも勝負を面白くするのも、本業の目標と賭け事の対象が一致していれば、八百長とは言えない。今回の円陣での声掛けにお金を賭けていた行為は、このパターンである。内輪の楽しみと言えなくもない。だが、お金によってモチベーションを上げるというのは余り効果が持続しない。何れは慣習化して本来の目的から外れて日常的にお金をやり取りするようになる。本来スポーツはアマチュアであるべきというのは、ゴルフも野球もお金を目的とすれば本来の目的から外れてしまう、その事を言っているのだ。だがアマチュアがやるには余りにスポーツが高度な技術を要するようになってしまった、それがプロの存在を認めるようになった原因である。強い選手になるには生活する為に働く時間が無い、それを補うことで練習に専念できるからである。それがいつしか賞金目当てにスポーツをやるようになった。
人間の能力には色々あって、運動能力に優れている人がいてもおかしくは無い。今は何でも価値をお金で計る時代である。女子ゴルフは毎週ドラマチックな展開が魅力のプロスポーツである。予選を通らなければお金は一銭も入らない。優勝を狙う力量がない選手は、せめて予選を通過して少しでも稼ごうとする。試合そのものが大きな賭けゴルフであるから、優勝という名誉を賭けて争っているが本質は賭けゴルフ、賭博である。 だがアマチュアのゴルファーは平気で賭けゴルフをやるようである。社内コンペは賭けゴルフの見本市、私はやらないので断ったが、付き合いが悪いと評判が良くなかったようだ。
お金をかける事でスリルが生まれ、勝ってお金が財布に入ると人間気分が高揚してくるらしい。三つ目は、お金を楽に稼ぐ方法として行ういわゆる賭博。勿論全員が真剣である。競馬も競輪もスポーツとは言いながら、やっている人の多くは既に辞められないで身を持ち崩した人である。大金を得る夢を捨てきれず、なけなしの金をつぎ込んでは勝負の一瞬に人生を賭ける人を見ると、公営競技のあり方は娯楽の枠を越えているともいえる。古くは丁半博打、海外ではカジノ、そしてパチンコから今話題の野球賭博、みんな大なり小なり一攫千金を掲げるゲームである。ここまで来ると遊びでは済まなくい。賭け事は人類の歴史始まって以来、ずっと続いて来た固有の遊びである。多分、勝った時に脳が受ける幸福感(ドーパミン)は、麻薬の与える幸福感と似ているのだろう。ある意味、賭け事は麻薬とも言える。
私の、賭け事に対する考え方は一つである。それが努力を必要とし、辛い練習を重ねる事で才能ある者が初めて勝つ事が出来る。偶然の入り込む要素が少なければ少ないほど、勝った人間の幸福感は強くなる。野球人であれば誰しも優勝を望まない者はいまい。だからブロ野球は「優勝を目指す団体」であると言える。そしてプロスポーツ団体であるからには、ファンの喜びを自分の喜びとすることが求められる。つまり球団は「ファンと一体のもの」なのである。選手はファンの夢を背負って闘うのである。ファンと一緒に悔し涙を流し、ファンと一緒に勝つ喜びに我を忘れて大騒ぎをする。もちろん心ないファンのヤジに腹が立つ事もあるとは言え、基本は選手・ファンが一体となって優勝を目指して戦うのがプロスポーツ、例えば「野球」なのである。
私は、勝負に関わらないからとか、ゲン担ぎだからとか、目くじら立てる程のことは無いとか言う人は間違っていると思う。選手はファンのものであるし試合はファンのものなのだ。円陣での賭けは、その試合を「私物化する」行為である。だから罪なのだ。
私は、「 ファン > 球団 > 選手 」という構造を守る事が必要だと思う。目的は選手も球団もファンも皆んな同じでなくてはならない。円陣でお金を賭ける行為は、勝っても負けてもファンと同じ気持ち、とは言えない。それは公でなく私である。野球選手も公私をわきまえて試合してほしいものである。でなければ、野球はいまにファンから見捨てられる存在に成り下がるであろう。
巨人は最もファンから遠い存在、そうならない事を願う。
賭け事には、暇つぶしにする場合がある。暇つぶしであるから、より面白く興奮する勝負があればそちらにシフトする。例えば野球の試合が無い時は「する事が無いから、賭け事をして暇つぶしをする」と言うようなものである。暇つぶしであるからそれなりの少額であり、勝っても負けても笑って済ませる程度。これはゲームだという人がいるかも知れないが、お金を目的として賭けているのだから、額は少なくても賭博である。宝クジもこのカテゴリーに入るし、競馬や競輪もそうである。つまりは簡単に言うと、宝クジを買う人は犯罪者ということになる。
また、勝負をより面白くする為にする場合がある。ただ駆けっこをするのは子供だけで、大人になると何かちゃんとした結果が欲しくなる。野球で言えば基本的には甲子園にでて優勝を目指すし、プロになれば年俸を上げるために頑張ることになる。基本がスポーツであるから記録や勝利がそのモチベーションになるのだが、毎日モチベーションを高く持ち続けるのは余り勝負に関わらない普通の選手には難しい。そこで本筋とは関係ないが、賭け事を持ち込むことでモチベーションを維持し、少ないながらも賭け金を得るという楽しみを「仕事の喜びに追加して」行う。これは本業の穴埋めに行っているのだから、本業で大活躍すれば所詮賭け事などよりもっと多くの評価と給料が貰えるので、二流選手に特有のものとも言える。賭け事の特徴は、努力と結果が一致しない事である。
暇つぶしも勝負を面白くするのも、本業の目標と賭け事の対象が一致していれば、八百長とは言えない。今回の円陣での声掛けにお金を賭けていた行為は、このパターンである。内輪の楽しみと言えなくもない。だが、お金によってモチベーションを上げるというのは余り効果が持続しない。何れは慣習化して本来の目的から外れて日常的にお金をやり取りするようになる。本来スポーツはアマチュアであるべきというのは、ゴルフも野球もお金を目的とすれば本来の目的から外れてしまう、その事を言っているのだ。だがアマチュアがやるには余りにスポーツが高度な技術を要するようになってしまった、それがプロの存在を認めるようになった原因である。強い選手になるには生活する為に働く時間が無い、それを補うことで練習に専念できるからである。それがいつしか賞金目当てにスポーツをやるようになった。
人間の能力には色々あって、運動能力に優れている人がいてもおかしくは無い。今は何でも価値をお金で計る時代である。女子ゴルフは毎週ドラマチックな展開が魅力のプロスポーツである。予選を通らなければお金は一銭も入らない。優勝を狙う力量がない選手は、せめて予選を通過して少しでも稼ごうとする。試合そのものが大きな賭けゴルフであるから、優勝という名誉を賭けて争っているが本質は賭けゴルフ、賭博である。 だがアマチュアのゴルファーは平気で賭けゴルフをやるようである。社内コンペは賭けゴルフの見本市、私はやらないので断ったが、付き合いが悪いと評判が良くなかったようだ。
お金をかける事でスリルが生まれ、勝ってお金が財布に入ると人間気分が高揚してくるらしい。三つ目は、お金を楽に稼ぐ方法として行ういわゆる賭博。勿論全員が真剣である。競馬も競輪もスポーツとは言いながら、やっている人の多くは既に辞められないで身を持ち崩した人である。大金を得る夢を捨てきれず、なけなしの金をつぎ込んでは勝負の一瞬に人生を賭ける人を見ると、公営競技のあり方は娯楽の枠を越えているともいえる。古くは丁半博打、海外ではカジノ、そしてパチンコから今話題の野球賭博、みんな大なり小なり一攫千金を掲げるゲームである。ここまで来ると遊びでは済まなくい。賭け事は人類の歴史始まって以来、ずっと続いて来た固有の遊びである。多分、勝った時に脳が受ける幸福感(ドーパミン)は、麻薬の与える幸福感と似ているのだろう。ある意味、賭け事は麻薬とも言える。
私の、賭け事に対する考え方は一つである。それが努力を必要とし、辛い練習を重ねる事で才能ある者が初めて勝つ事が出来る。偶然の入り込む要素が少なければ少ないほど、勝った人間の幸福感は強くなる。野球人であれば誰しも優勝を望まない者はいまい。だからブロ野球は「優勝を目指す団体」であると言える。そしてプロスポーツ団体であるからには、ファンの喜びを自分の喜びとすることが求められる。つまり球団は「ファンと一体のもの」なのである。選手はファンの夢を背負って闘うのである。ファンと一緒に悔し涙を流し、ファンと一緒に勝つ喜びに我を忘れて大騒ぎをする。もちろん心ないファンのヤジに腹が立つ事もあるとは言え、基本は選手・ファンが一体となって優勝を目指して戦うのがプロスポーツ、例えば「野球」なのである。
私は、勝負に関わらないからとか、ゲン担ぎだからとか、目くじら立てる程のことは無いとか言う人は間違っていると思う。選手はファンのものであるし試合はファンのものなのだ。円陣での賭けは、その試合を「私物化する」行為である。だから罪なのだ。
私は、「 ファン > 球団 > 選手 」という構造を守る事が必要だと思う。目的は選手も球団もファンも皆んな同じでなくてはならない。円陣でお金を賭ける行為は、勝っても負けてもファンと同じ気持ち、とは言えない。それは公でなく私である。野球選手も公私をわきまえて試合してほしいものである。でなければ、野球はいまにファンから見捨てられる存在に成り下がるであろう。
巨人は最もファンから遠い存在、そうならない事を願う。
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