明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(23)斎藤忠の「倭国滅びて日本建つ」を読む・・・その ③ 倭国と日本国

2021-08-05 17:25:31 | 歴史・旅行

1、倭国の領土は東西5月行・南北3月行

私は倭国の領土を九州一円と思っていたので、今までどうしてもこの記述が理解できなかった。しかし659年に倭国は「蝦夷国の使節を伴って」遣唐使を派遣しているから、この時蝦夷国は「倭国の支配下にあった」のである!。そうであれば日本全体が既に倭国の支配領域で、その中の九州以外の「越後や東海地方、長野から関東、そして蝦夷の支配する東北・北海道まで」が、支配下の「藩国」だったという斎藤忠氏の説が的を得ている。また、倭国の南は中国の越州と接していると書いているから、沖縄から先島諸島辺りまで含んでいると解する。一方で、日本国の範囲はどうなるかと言うと、「中央アルプス以西の本州島の半分ぐらい」というのが妥当だと考えて良いと思う。勿論、日本国も倭国支配下の1藩国だったことは間違いない(もしそうで無ければ、当然両者は戦っている筈だから)。卑弥呼の時代に「倭国大乱」というのがあったが、それ以降は戦闘の記録は無いようである。もし「神武東征」というのがあったとするならば、九州倭国と近畿王朝は「氏族を同じくする兄弟國」だった、とも考えられる。何れにしても645年に乙巳の変が起き、蘇我氏が倒され孝徳天皇が一時的に難波に宮を開いたが、中大兄皇子と意見が合わずに政権自体が飛鳥に戻る事件が起きて、孝徳は654年に独り寂しく病死。659年というのは、もう一度斉明天皇が立った時期に当たる。もし史実の通りであれば、遣唐使どころではなかっただろうと思う。だから遣唐使を送ったのは「倭国の方」で、倭国と日本国とは「別々の国」であったと言えるだろう。この時、倭国が日本全体を支配していたというのはちょっと大袈裟で、まだまだ部族がいくつもあり、それらが「ゆるい連携」をしている中で「一番強大な氏族」だった、という程度であろう。一応、倭国を代表して中国と通交しているという点では、抜きん出ていたのは間違いないと思う。だから東西5月行・南北3月行と言うのは倭国の領域だが「日本全体」でもあったと解釈したい。

2、「日本国」の読み

そして長安3年(703年)の遣唐使記事には、日本の代表として「周の則天武后」に粟田朝臣真人が拝謁したと書かれている。どうやら則天武后は日本を気に入ったみたいだ。後年、玄宗皇帝の時に同じく遣唐使として渡った阿倍仲麻呂も玄宗に気に入られ、政府高官にまで上り詰めたという(帰ろうとはしたらしい)。やはり外交は「人物」が大事のようだ。なお、「日本」と言うのは中国に説明するための「漢字表記名」で、国内で自分達の国を「何と呼んでいたか」は不明である。倭の五王も「倭讃とか倭武とか」自らを名乗っていたが、これはあくまで「書き言葉」なので、当然読むときは日本語で発音したであろう。だが残念ながら、読み方は記録に残っていない。魏志倭人伝にも三十国ばかりの国名が記されているが、多分だが、邪馬台国は「ヤマタイ」または「ヤマ」と呼ばれていただろうし(古田教授によれば邪馬壹=ヤマイチだが)、伊都國は「イト」と呼ばれていただろうと推定できる。じゃあ日本だって「ニホン」でいいじゃないか、と思うかも知れないが、これが「ヤマト」だと言うのだから何とも「分からない」のである。邪馬台国の「台」を「ト」と読めば「ヤマト」であろう。「あれっ?」、それじゃ委奴国の後継だという説明はどうなったんだろう。委奴国は金印を貰ってからどうなったか分からないが、その後に「委国」が出てきて中国側の卑字使用の原則に従い「倭国」という一字表記になった。委奴国が委国になったという考えも勿論有力で、中国の王朝も全て一字である。漢字表記は、唐とか隋とかと並ぶ大国「倭」である。読みは「イ」だ。どうしたって「ヤマト」とは結びつかない。今まで「イコク」と言っていたのが急に「ヤマト」となったら、これは粟田真人だって苦しい説明にならざるを得ないだろう。例えばアルファベットのような発音記号の文字を使用する国であれば(戦国時代のポルトガルなど)、ヒホンとかハポンとかヤーパンとか書くのは理解できる。まあ何となく「日本」というのをアルファベット表記しようと努力しているように見える。一方「日本」は中国語では「リーベン」と発音する。一応日本の言う通り漢字表記はそのまま受け入れたが、読み方は中国人の読み方で呼んでしまうのが通例だ。これは中国人の名前を漢字では「習近平」などと受け入れてはいるが、読み方は日本語の「シュウキンペイ」と読むのと同じである。まあこのシュウキンペイというのも「元は漢音」だから中国語なのだが、今の中国語では「シージンピン」といわないと通じない。これが表意文字の弱点である。それがいつのまにか日本のことは「JAPAN」と書き、外国人も「ジャパン」などと発音して平気でいるが実の所、我々は自分の国をそんな風に呼んことは「一度も無い」のだ(当たり前である!)。JAPAN と言われて表面ではニコニコ笑ってはいるが、心の中では「本当はニホンだ」と言いたいし、もっと言うならば「やまと」だという気持ちと同じであろう。だが当然のことながら、中国は「漢字の国」である。日本人が何と発音しようと「日本」と書けば「中国での読み方」で読むのが道理だ。北京と書いて「ベイジン」というようなものである(うーん、全然分からん!)。やっぱり後進国は、自分の国名を「自国語」で読んで貰えないのだな、と情けなく思う。私はそろそろ JAPAN というのをやめて「にほん」または「ニホン」或いは「NIPPON」で通してもいい頃だと思うのだが、どうだろう?(ちょっと脱線したかな?)。何れにしても、対外的には「日本=リーベン」で国内的には「日本=やまと」という使い分けが出来ていた、と考えてもいいだろう。

3、日本国デビュー

中国との通交は西暦59年の後漢・光武帝の金印下賜以来、連綿と途切れることなくずっと続いていた。659年の遣唐使も「倭国」として行っている。つまり使節を送る側は「同じ国」という認識だ。中国ではその民族を代表する国を一つ選んで外臣として公式に登録し、遣唐使などの朝貢外交するのが一般的である。倭国が朝貢したのであれば、日本民族の代表が倭国だと認められたということでもある。それがこの50年弱の間に、「倭国から日本国に」名前が変わっているのだ。何があったんだろうか?。この期間は天智天皇が大活躍している時代である。645年乙巳の変で蘇我氏を倒してから、一時的には孝徳政権が成立して難波宮に遷都した。それがスッタモンダした挙句に孝徳は孤独のうちに憤死。天智天皇は飛鳥に戻って政権を樹立した。そしてここが大問題なのだが、662年の白村江海戦にはスルーして「参加しなかった」のである(たまたま斉明天皇が崩御したため、というのが理由となっている)。これは倭国と近畿天皇家が別の国家であることの証拠なのだが、日本書紀の記述は曖昧だ。そして天智近畿政権が不参加のまま戦った倭国は、「案の定」唐・新羅連合軍に大敗する。その後665年12月に、倭国は唐の役人劉徳高と一緒に守大石らの使節を送っている。これは年次の遣唐使というよりは「唐の封禅の儀」への参加を強制されたのだろうと言うのが斎藤忠説だ(補説参照)。白村江で敗れたには違いないが、倭国の本体は手付かずに残っている。だから服従の意味も込めて、これはあくまで「倭国」としての参加だと考えたい。・・・それから47年たった702年、初めて「日本国として」正式に遣唐使を送った。中国外交部の鴻臚寺では通交している日本代表は「倭国」という認識だったので、改めて日本の使節・粟田真人に「日本国の事情を詳しく聞いた」筈である。もし日本が倭国から代表の座を奪ったのであれば、外交部としては「その経緯」を倭国からも聞かなければならない。禅譲なのか簒奪なのか、または倭国の自然消滅なのか。ところが、粟田真人は「改名した」と申告した。つまり、今まで倭国と言っていたが、今回「日本」と改名した、実体は元のままで変わってはいないというわけである。これなら手続き上は何も問題ないことになる。だが旧唐書では「実を持って答えず」と記録しているから、外交部は「疑問を持っていた」ということになるだろう。実際はこの間に「壬申の乱」という未曾有の大乱が起きていた。それを中国が知らない筈はないと思うのだが・・・。ところが則天武后が粟田真人をえらく気に入ったために、外交部が疑問を持っていたにも関わらず「改名」という話が「正式に通ってしまった」のである(オーマイガッ!)。女の浮気心は、得てして歴史を変えてしまうのだ(それほどのことでは無いと思うけどねぇ・・・)。とにかく則天武后が「倭国改め日本」を正式に採用したということである。果たして改名は本当なのか?。ここが最大の転回点なのかも。

4、日出ずる国の天子

日本国の由来については、新唐書と旧唐書は異なった見解を示している(新唐書の方が後に編纂された)。日本という名前は、実は「670年」には既に使われていたらしいのである。新唐書には倭国が咸亨元年(670年)に遣使し、(その後)日本に改名したとある。唐会要・冊府元亀などの記録によれば、日本が入朝したのは3月だ。一方、朝鮮の史書「三国史記」新羅本紀の文武王10年(670年)の条に、「12月に日本と変えた」とある。698年にも「日本国使」が来たとあるので、朝鮮とはもう「日本」で通交していたようだ。倭国は百済支援で唐と戦った。しかし一方で天智天皇は白村江をスルーし、しっかり新羅とも連絡してたのである。穿った見方をすれば、百済寄りの倭国と新羅寄り(ということは唐寄りでもある)の日本、という図式が考えられる。その新羅寄りの政策を取っていたのが、他ならぬ天智天皇というわけだ(今までは天智天皇は百済人だという説が多かったのだが・・・)。彼が672年に死亡してから703年に文武天皇が遣使をするまでの間、つまり正確には、天武天皇が壬申の乱で勝利し695年に高市皇子が死ぬまでの「新益京(藤原京)」の時代は、実は唐との関係を絶っていたのである。倭の五王が南宋と通交していた5世紀から約100年、それまでは南宋に「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍」というような長ったらしい役職を貰うために長文の国書を提出したりしていたのが、「日出ずる国の天子」の頃にはだいぶ国力も上がってきて意識が変わり、朝鮮半島にもそれほど口を出さなくなっていた。この時日本は武烈天皇で皇統が断絶し、応神五世の継体天皇が首都飛鳥に入れずに戦闘を続けるという異常事態があった頃である。そして物部麁鹿火の磐井の乱があり、百済から任那など4県の割譲など、日本と朝鮮半島との関係は目まぐるしく変わっている。その後は欽明天皇から蘇我氏の時代だ。もしかしたら倭国の内部で支配者の入れ替わりがあったかも知れない。それが朝鮮半島の緊張が高まって、乙巳の変で蘇我氏を倒されてから一気に外交政策が百済寄りに変更され、とうとう「白村江の大敗北」まで深入りすることになったのである。何だか昭和の太平洋戦争を思い起こさせるではないか。一度進み始めたら世の中が見えなくなって、最後には破滅する迄止められない、という・・・。しかし少なくとも、白村江をスルーした天智天皇には「世界が見えていた」のかも知れない。「世界」といっても唐の国力が日本の比じゃないっていう単純な事実だが、太平洋戦争の時にもアメリカの国力を過小評価していた。歴史に学ばないのは日本人の体質かな。

補説:余談だが、日本でも桓武天皇の時、郊祀(郊天祭)が行われている。場所は現在の大阪府交野市辺りということだが、郊祀は封禅の一種で、冬至の日に都の郊外(天壇)で神を祀り、自分が「天に認められた正当な支配者」だということを内外に示す重要な儀式である。中国では最初に秦の始皇帝が行ったとされていて、歴史上は何度か行われている儀式なのだ。この時の郊祀は、天武天皇系から光仁天皇系、つまり始祖・天智天皇の系統へと「皇統が易姓革命によって変わった」ことを天下に宣言する意味があったとされる。封禅(郊祀)はそもそもが中国の儀式であり、桓武天皇自身の母が渡来系氏族の和氏・高野新笠であるから「百済系王族とのハーフ」なのだ。その桓武天皇が「始祖」と仰いでいる天智天皇は、日本書紀の乙巳の変で古人大兄皇子から「韓人」と呼ばれていたという。これらを総合すれば、天智天皇は「百済人」だ、という説も納得してしまいそうになる。大体、舒明天皇の奥さんの宝皇女(皇極・斉明天皇)は父親を茅渟王と言って、その父こそ敏達天皇の子の「押坂彦人大兄王子」だが母は「漢王の妹」大俣女王だから、渡来系「百済人」という噂もあながち無視できないのである。まあ渡来人と言っても今と違って「そこら中に溢れていた」だろうから、珍しくも無いだろうけど。ちなみに、京都にある天皇家の菩提寺・泉涌寺には、「天武から称徳」までの名前は無いらしい(私は実際に見たわけではない)。そうなると逆に天武天皇は純粋日本人というか、純「倭人」ということになる?(いかん、またまた脱線したようだ)。

今回は焦点がボケてしまった。次回は核心を突くような記事を書いてみたい(続く)。


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