明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の選ぶ新百人一首(11)在原業平

2021-05-27 18:21:27 | 芸術・読書・外国語

定家が選んだという百人一首では、業平の歌は「ちはやぶる〜」である。この歌は、ありふれた自然の景色を、見方を変えて面白く感じてみせる「古今集や新古今集の一つの特徴」だと思って、まあまあそんなものだろうと納得はしている。だがやはり業平の名歌を一つ挙げよと言うなら(勿論、一つでは収まると思ってはいないが)、自身の恋愛遍歴においても最も深く心を尽くして愛した女性を想っての、美しくも哀しい諦念を詠んだのこの歌を第一に挙げたい。

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ  我が身ひとつは 元の身にして

これは伊勢物語四段に登場する藤原高子・後の二条の后に対する忘れられぬ気持ちを歌った有名な歌ですね。月や春は年々変わっていくのに、自分だけはあなたと哀しくも別れた時のまま止まっている、という気持ちをストレートに歌った名歌です。ある夜、彼女との懐かしい想い出につい誘われて、昔二人でよく過ごした無人の部屋に忍び込んで一人佇んだ時、ふと見上げた中空に「ポツンと浮かぶ月」を眺めているうちに自身の感情が切々と込み上げてきて、無常にも時事刻々と進んでいく時の流れに対して「自分一人だけ、あの時の愛し合った時間のままで」取り残されたように止まっている己の現実を慨嘆し、惜別の情忘れがたしと涙を流すさまを詠んだ歌である。もう少し業平の心の動きを平易に解釈すれば、「久し振りに昔を懐かしんで来てみたが、思いがけず部屋から見る月や春の景色は一向に心に響かないではないか。何故なんだろう?・・・きっとそれは愛するあなたがここにいないからなのだ。全てはあなたがいなければ何の意味も無い。ああ、どうしてあなたは去ってしまったのか。出来る事なら昔のように、間近にあなたの吐息を感じて愛を確かめていたいのに、それが叶わず私は悶々としていることよ」、となる。・・・これは私の解釈である。世の中の解釈には、月や春は昔通りに相変わらず美しい姿を見せているのに、「私だけが変わってしまっている」とするものがある。しかしこれは「月やあらぬ」と初句で言い切っているから明らかに間違いである。「こんな筈じゃなかった」というのが上の句の素直な表現・読解であるから、移ろいゆく時の流れを景色の変化に擬えて受け入れて、そういう有為転変久しい世の中に対して今も変わらず愛し続けるそんな虚しい恋心を、業平は月に寄せて歌っている、という解釈が正しい。

ところで、こういう「直接的な心情の吐露」が、平安時代に流行っていたのかというと、そうでは無いと私は思う。この歌は今思うと、「通俗的なありきたりの内容」だ、とも言える。よく言えばベタな演歌などにも通ずる「男女の愛の永遠のテーマ」と言ったところか。何も考えずにサラッと読んでしまえば、なんて事のない歌のようにも思えるのだが、色々と歌ができた背景を慮ると「そこには相当に深い葛藤が想像されて」心が動かされる。このような複雑な感情を千何百年か前に既に詠んでいた業平という歌人は、その感情が現代にもそのまま通じる「ロマンチストの典型」と言うべき人間だった、と言えるのではないだろうか。

伊勢物語には他にも有名な歌が多数載せられているが、中でも私の好きなのが次の歌である。

名にし負わば いざ言問わん都鳥 我が思う人はありやなしやと

これもまた在原業平の歌の中では双璧ともいうべき名歌だ、と私は考えている。大意は「さあ都鳥よ、都鳥という栄えある名前を持っているのなら是非答えてくれ、私の想う彼女は今どこでどうしている?、まだ私のことを想って待っていてくれるかな?、それとも・・・」という望郷・別離の歌である。この「ありやなしや」という句を「単に元気にしてるかどうか?」と解釈する向きもあるそうだが、私は「生きているかどうか」に近い感じに捉えている。つまり生物学的な意味では生きているかもしれないが、私を捨てて他の男に心を移してしまったのなら、それはもう私にとっては死んだも同然だ。だから単なる近況を聞いているのではなく「愛が今も燃えているかどうか、それを教えてくれないか?」という切羽詰まった心から絞り出すような重たい質問、そんな感じである。川面に浮かぶ水鳥に遠い都の人の消息を尋ねるという発想が面白く、旅の途上の遊び感覚がよく出ていて楽しいとも思えるが、一転業平の心の奥深くをのぞいてみると、案外と真実の心情が垣間見えてグッと来てしまう。現代で言えば「竹内まりやのラブソング」を思わせる甘辛なニュアンスである。外面はあくまで水鳥におちゃらけて「どうだい?、知ってるかな都鳥さんよ?」と笑って聞いているように見えるが、実は「心の中では泣きそうになっている」自分を何とか抑えている、そんな哀しい恋愛映画のワンシーンを思わせる名歌だ、と私は思う。業平さん、平安のドンファンとか言われているけれど、案外と一途なんだね。

とにかく業平は、豪華な宮殿の中で優雅に管弦の宴を楽しみながら、技巧を凝らして本歌取りを散りばめた作品を披露し、満座の喝采を浴びる得意満面の「和歌の達人」というのではない。彼の歌は技巧がどうこうという作りとはそもそも違っていて、字句の示す通りの内容をストレートに歌にしているところが彼らしいといえば言える。たまに技巧を弄して如何にも作りました風の作品もあったりするが、それが百人一首とかに採られて今に残ってはいるが、間違いなく凡作であると思う。彼の1番の特徴は自身の感情を「何気ない出来事にも思い募る恋心」として、単純明快な言葉で読者に提示するところにある。古今集を編んだ紀貫行は「業平は心余りて言葉足らず」と評したが、私は歌とは(もっと言えば芸術というのは)「何気ない風景」を描いて、しかもそこに最も気高い心情を溢れんばかりに込めることだ、という意見に賛成するものの一人である。その「最も気高い心情」をどれだけ精密に分析し、まるで人体を解剖するように臓器を取り出して目の前に見せることが出来たとしても、それでは人を感動させ共感させることは出来ないだろうと思っている。これは一見とても原始的な解釈に見えるが実は、最も「芸術の本質を言い当てた」傑出した理解だと考えている。つまり、満開の桜の美しさを語れば語るほど、その裏返しで人間の命の儚さを闇に示している、というようなものである。人の世とは裏腹な世界なのだ。幸せの陰に、同時に哀しさがある。この二重の暗喩・レトリックこそが、この歌の持つ魅力と言えよう。これこそ、そんな無常の世の中にあってなお、自身の愛情を「永遠のものと信じたい」男の嘆きを歌って余りある畢生の名歌だと言える。

考えてみればこれは、人類普遍のテーマではないだろうか。鏡を見て「随分老けたな」と思う人は世の中大勢いると思うし、その時にふと昔好きだった女のことを思い出して「あの頃は・・・」なんて、時の流れを忘れて感慨に耽ることもあるだろうと思う。そんな気持ちを「平安初期の昔」に同じように想っていた男がいた、というだけでなんか楽しいではないか。もし私が業平に会えるとしたら「人間って変わらないよね」って言ってあげたいと思う。そして、あてどない恋の行方を共に嘆き、我々を無言で照らしている冴えた月の光を浴びながら、思いを込めて一杯の酒を酌み交わそう。

この場合、ビールなんかじゃない方が良いと思う。出来たら日本酒が良いねぇ、それも滅多に飲めない純米吟醸酒がいい。きっと、涙で薄めたら塩味が効いて泣けてくるかも・・・。


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