名張毒ぶどう酒事件、この冤罪事件のドキュメンタリーをCSで録画しておいたのだが、今日初めてじっくりと見てみた。全部で4本、大作である。まず第一に感じた印象は、日本の刑事裁判の汚点であり警察・検察それと裁判官という、公務員の「非人間性」を露呈する象徴的な事件であるというものだった。犯人とされた奥西勝はもとより、担当した刑事と調書を作成した者や村人の証言に加えて、弁護士団の信念と熱情をカメラで追い続けたルポルタージュの映像は胸に迫るものがある。
しかし中でも何度かの新証拠を見つけ出して再審請求にこぎつけるも、結局裁判官の無知蒙昧の壁に阻まれて、無罪を勝ち取れないまま亡くなった弁護士と奥西本人の無念は計り知れない。奥西は刑務所の中で病死したとある。だからこのドキュメンタリーは「90歳を間近にして無罪への可能性はあるのか?」というスリリングなドラマと言うより、司法の因盾を厳しく追求すると言う「重苦しいテーマに真正面から取り組んだもの」であり、久々にテレビ局というジャーナリズムの警鐘と本音の怒りを見せてくれた労作である(初回放送日は何時だったか確認を忘れた)。
この手のドキュメンタリーが制作されるたびに日本の裁判の自白偏重が糾弾され、最近も足利事件の無罪決定など、自白による冤罪事件は後を絶たない。日本だけの問題ではないのだが、何故なんだろうか。「裁判官も人間だ」などと知ったようなことを語る人は、犯してもいない罪を被せられて利用され放置・無視された無実の人の無念を「どう納得する」のだろうか。少なくとも法の下の自由・裁きの平等・疑わしきは被告人の利益という憲法の最大の売り文句は「有名無実」なのではないか、と慨嘆してあまりある。そこで私なりにこの事件の特異な点を説明してみたいと思う。
1 動機
事件直後には数人が怪しいとされて、親睦会を開いた村会長にも疑いが及んだ。ぶどう酒が酒店から親睦会場に運ばれて被害者たちが飲んで倒れるまでの数時間に毒が仕込まれた、と警察は見ている。ぶどう酒かグラスかという点では、ぶどう酒を飲んだ女性全員が中毒で倒れている点から見てもぶどう酒と見て間違いなさそうである。実際にぶどう酒から毒物が検出された。では酒屋で入れたということは考えられないか。親睦会に届けることは分かっているので、酒屋で毒物を入れた可能性も否定できない。それは犯人の動機に密接に関係している。多数の女性を殺害したのは、1女性達全員に恨みがあった2目標を絞って殺すと犯人が割り出されてしまう恐れがあるから多数の中に紛らせて犯行動機を隠蔽した、との2点が考えられる。勿論、3快楽殺人の可能性もあるが狭い村社会では考えにくい(もしそうだとすれば、二度三度と事件が起きても不思議ではない)。犯人は「村人の中にいる」と思われた。もし「1」の女性達全員に恨みがあるとすると犯人は「男性」ということになるが(犯人が女性だと、自分も死ぬかも知れないので)、果たして男に「女性達全員を殺してやる」とまでの怨念が生じることなど、日常的には考えにくい。男は個人的に恨むことはありうるが、全員となると「異常人格」でもない限りあり得ないと考えたのだ。だが村人の男性が他の女性達と重大なトラブルになったという報告はないようである。結局は「2の隠蔽」だと警察は断定した。奥西が不倫関係を精算しようと思い、親睦会に紛れて二人共毒殺した、というのが警察の見立てである。だが不倫を精算するくらいで「5人を殺し15人も病院送りにしよう」とするだろうか。おまけに不倫相手の女までも殺すなんて、どうしても納得行く理由ではない(私なら不倫の相手は殺さないけどね)。そこで一つは目標の相手を確実に殺せるか、という問題。もう一つは「女房だけ殺せなかったのか」という問題。それに殺すにしても「それには相当の葛藤があって、争いが長期間に、しかも激しい諍いが起こってどうにも解決がつかず」といった状況がなければ不自然である。不倫関係の精算というのは「都合の良い、取ってつけた動機」と思われてならない。奥西が疑われてから「後付けで浮上した動機」だと私は思う。しかし裁判官は、この動機の説明に対して疑問を投げかけてはいないようだ。裁判官は意外と世間知らずのお坊ちゃんが、わんさか大勢いるのである。自白があれば、動機などは何だって良かったのではないか。
2 殺害の凶器
凶器は毒物ニッカリンTという農薬を入れたぶどう酒である。ニッカリンTは赤い色をしている。ぶどう酒に入れると赤くなるそうだ。だがぶどう酒が「赤ワインか白ワインか」ドキュメンタリーは言ってないので、もし赤ワインだった場合は色は判明しない。これは疑問として残る。だがニッカリンTを混入した場合は「不純物が入る」とされ、問題のぶどう酒からは「その不純物は発見されていない」のだ。弁護団はインターネットで手を尽くしてやっと封を切っていないニッカリンTをダンボール箱で入手した。その結果、犯行の凶器は「奥西の自白と違っている」と判明した。ニッカリンTでないとしたら何なのか、またその農薬を奥西は入手出来たのか?、肝心の毒物は「特定されてない」。奥西の犯行を決定づける証拠なのに、何という毒物なのか不明で「ただ農薬という」に過ぎないのだ。これでは奥西を犯人とするには不十分である。だが、再審請求は名古屋高裁の壁に阻まれる。「色々あるけど、有罪は変わらない」というのが名古屋高裁の門野裁判長の出した結論である。「疑わしきは罰せず」という言葉は、この人には無縁のようだ。
2 ぶどう酒に毒を入れるタイミング
ぶどう酒に巻かれている封緘紙を破らずに王冠を開けることは不可能と説明されているので、犯人が毒を入れるタイミングは集会場所の公民館しかないと警察は結論した。破かれた封緘紙も公民館から発見されている。だが弁護団の必死の努力で、都内の町工場の再製作による「再現」実験の結果、封緘紙を破らずに開けて毒を入れることは「可能」と証明された。であれば毒を入れた場所は、公民館とは限らないことになる。ぶどう酒は2時5分に農協から林酒店に納入、村人の石原さんが林酒店からぶどう酒を受け取って会長宅に届けたのは2時15分と証言した。会長宅から公民館へ奥西がぶどう酒を運んだのが5時20分だから「3時間近く会長宅の玄関に置いてあった」ことになる。そうなると誰でも毒を入れられることになってしまう。最初石原は会長宅にぶどう酒を届けた後に、5時頃に会長宅から6km離れた仕出屋へ自転車で行き、弁当を貰って公民館に届けたと言う。だが奥西が自白したら「あれは記憶違いで、酒屋から酒を受け取ったのは5時頃の間違いだ」と、証言を翻す。そうなると毒を入れられるのは「公民館」でしかなくなる理屈だ。ところが酒屋に5時となると仕出し屋に5時に行くことは不可能である(6kmもあるから往復12kmだ)。すると仕出し屋の女主人が「弁当を渡したのは6時頃かもしれない」と、これまた証言を変えるのだ。余りにも変である。仕出屋の言い訳では時計が狂っていたとしているが、だが仕出し屋のような職業では受け渡し時間を守らねばならないため、時計が狂ったままでは商売出来ないので「すぐに直す」筈である。あの時は時計が狂っていたのかも知れない、などと曖昧な証言では納得できないであろう。仕出し屋や石原の証言変更は、奥西犯行を都合よく裏付けるために警察の意向でなされたことは明らかである。テレビ局による石原の後日のインタビューでは「逃げるようにカメラを振り払いながら」証言変更を「覚えていない」と言う石原の姿がはっきり映し出されている。
3 王冠の歯型の鑑定
ぶどう酒の王冠は「歯で開けた」と奥西が供述している。警察が鑑定依頼をした「大阪大学の教授、松倉豊治氏」が、歯型が奥西のものと一致したと証言。だが弁護団の努力の結果、「鑑定の写真資料が倍率を変えて奥西と一致させた別物」だと言うことを3D解析技術で証明した。王冠の歯型は奥西のものではなかったのだ。王冠は歯で開けたのではなく、平らな器具で開けたものと結論付けられた。唯一の物的証拠が崩れたと言うことで弁護団は勇み立ったが、「証拠能力は減殺されたけれど奥西の有罪を覆すほどではない」と「またしても裁判所の壁」に無罪決定は阻まれたのだ。鑑定した松倉豊治氏へのインタビューでは、「鑑定については、私は無言と貫くこと」にしてると言って逃げている。こうなると「こんな信念のない人間に鑑定を依頼していいのか」と言う疑問が湧いてくる。鑑定がデタラメだったり捏造されたりと言うのは良くある話である。テレビドラマの世界ではないのだ。結果として、物的証拠は無くなった。
3 ぶどう酒を運んだ石原房子の証言
5時過ぎに奥西が会長宅からぶどう酒を公民館へ運んだ時、坂峯富子と一緒に歩いていた。彼女は公民館に着いたら「ふきんがなかったので、会長宅へ取りに行った」と供述し、この間「10分間」ほど奥西が「独りで公民館に居た」と証言したのである。だが当初の警察による聞き取りでは、会長宅から公民館に行く途中、「石原房子と合流して3人で公民館で親睦会の準備をした」という。そして「ふきんを取りに行って帰ってきたら、奥西勝と石原房子が公民館の囲炉裏に座って話していた」と言っていた。これは捜査員が聞き込みをして上司に報告した事実である。奥西は「独りではなかった」のだ。だが最高裁は「又聞き証言は証拠として採用しない」とし、再審を却下した。ここでも「真実を追求する裁判という虚妄が」明らかになっている。大体が日本の刑事訴訟法では「集めた証拠のうち法廷に提出するかどうかは検事の一存で決まってくる」と言う。証拠を集めたり関係者から聞き取りしたり容疑者を尋問したりと、警察は権力を使って操作する。だが集めた証拠がどんなものなのかを弁護士は知ることができないのだ。これでは十分な弁護は期待出来ないではないか。聞くところによれば、アメリカでは「全部開示する」ことになっていると言う。当然である。その当然なことが日本では許されていないのだ。
4 ビンは発見できず
近くの川に捨てたという奥西の供述で徹底的に捜索したが、結局瓶のかけらすら発見できなかった。自白は強要されて創作されたもので、被害者にお詫びする「奥西の謝罪映像」が流れているが、後のビデオでは「警察に、俺が教えてやるから」と言われて「半時間ほど練習した」と語っている。なぜやってもいない事を奥西は自白したのか、ドキュメンタリーは「自白を強要されたが、冤罪が証明されて無罪を勝ち取った他の死刑囚」をインタビューしている。自白の強要は「白を黒だと自白させる」ことだって出来るのだそうだ。
総合的に見て「奥西がやった」と確信するには、「動機も方法も物証も不十分」なのである。自白だけが決め手と言っていい。だから一審では「無罪」となっているのである。津市の新任裁判官高橋爽一郎は生涯にわたって「ニッカリンTをぶどう酒に入れる実験」をしなかったのが残念だと、くやみ続けていたという。だが一審の無罪判決を覆して名古屋高裁で異例の死刑判決が下った。それから半世紀、まだ奥西の冤罪は晴れないままである。当事者はほとんどが高齢のために亡くなってしまった。司法はこの「名張毒ぶどう酒事件を裁くこと」から逃げていた、そう言われても仕方ないであろう。
今は少しは改善されていると思うのだが、私なりに日本の裁判というものの印象を書いて見たい。それは自白偏重という民族のトラウマである。自白とは「言葉」であり、本当のことを言っているか嘘なのかは「わからない」ものだ。それを「裁判官が勝手に判断する」のである。そこには意識してかあるいは無意識のうちに、色々なしがらみが絡み合って判断が捻じ曲げられる。私はCSで「エレメンタリー ホームズ&ワトソン」というドラマを気に入って毎回見ているが、自白が決め手となるような「観客の感情に訴える日本のお涙頂戴的なドラマ」とは論理も筋立ても全然違っていて、一つ一つの物的証拠を「演繹的に積み上げて」犯人を追い詰めていくスリリングなドラマである。日本はどうしたわけだか「自白偏重が染み付いた国」なのではないかと思うときがある。もう自白を証拠の一つとして扱うのは、止めたらどうなのか。容疑者が自白するというのは「罪を逃れられないと悟ったから」である。とすれば「自白する前に、罪は確定していなければならない」はずである。つまり自白とは、罪が確定した「後で」犯人が心情を吐露するものである。自白は心証を左右することはあっても、罪の立証には「必要ない」と言えるのだ。結局裁判においては、自白はあってもなくても関係ない。むしろ判断を誤らせる「雑音」であると私は言いたい。私の弟が裁判官をやっているが、彼に聞いたところ「自白は有罪決定の理由にはならない」と言っていた。もし現在の警察が健全な捜査で犯人を見つけることができないならば、未解決のまま迷宮入りになってもしょうがない。世田谷一家殺人事件はまだ未解決である。だがあれが鳥取の片田舎で起きていたら、きっと「犯人が特定され自白が強要されて、死刑が確定していた」のではないだろうか。冤罪恐るべし。
すべて「無知・思い込み・不必要な雑音・しがらみ・欲・権力」が、物事を間違った方向へ捻じ曲げてしまう。正しい判断だけを、余計な利益計算なしに即物的に実行するということ。それを出来ない人が、世の中に余りにも多いのだ。再審開始後に「やっぱり死刑」と判決した裁判官は、その後に東京高裁裁判長へと栄転していると言う。森友学園でのらりくらりと答弁を誤魔化した佐川氏が「国税庁長官」に栄転したことと余りにも似ているではないか。日本という国の根源的な闇に、政府も国民もどっぷりと浸かっている、そう改めて身につまされたドキュメンタリーであった。曰く、国家を正義と信じる者は、その国家によって使い捨てられる。
しかし中でも何度かの新証拠を見つけ出して再審請求にこぎつけるも、結局裁判官の無知蒙昧の壁に阻まれて、無罪を勝ち取れないまま亡くなった弁護士と奥西本人の無念は計り知れない。奥西は刑務所の中で病死したとある。だからこのドキュメンタリーは「90歳を間近にして無罪への可能性はあるのか?」というスリリングなドラマと言うより、司法の因盾を厳しく追求すると言う「重苦しいテーマに真正面から取り組んだもの」であり、久々にテレビ局というジャーナリズムの警鐘と本音の怒りを見せてくれた労作である(初回放送日は何時だったか確認を忘れた)。
この手のドキュメンタリーが制作されるたびに日本の裁判の自白偏重が糾弾され、最近も足利事件の無罪決定など、自白による冤罪事件は後を絶たない。日本だけの問題ではないのだが、何故なんだろうか。「裁判官も人間だ」などと知ったようなことを語る人は、犯してもいない罪を被せられて利用され放置・無視された無実の人の無念を「どう納得する」のだろうか。少なくとも法の下の自由・裁きの平等・疑わしきは被告人の利益という憲法の最大の売り文句は「有名無実」なのではないか、と慨嘆してあまりある。そこで私なりにこの事件の特異な点を説明してみたいと思う。
1 動機
事件直後には数人が怪しいとされて、親睦会を開いた村会長にも疑いが及んだ。ぶどう酒が酒店から親睦会場に運ばれて被害者たちが飲んで倒れるまでの数時間に毒が仕込まれた、と警察は見ている。ぶどう酒かグラスかという点では、ぶどう酒を飲んだ女性全員が中毒で倒れている点から見てもぶどう酒と見て間違いなさそうである。実際にぶどう酒から毒物が検出された。では酒屋で入れたということは考えられないか。親睦会に届けることは分かっているので、酒屋で毒物を入れた可能性も否定できない。それは犯人の動機に密接に関係している。多数の女性を殺害したのは、1女性達全員に恨みがあった2目標を絞って殺すと犯人が割り出されてしまう恐れがあるから多数の中に紛らせて犯行動機を隠蔽した、との2点が考えられる。勿論、3快楽殺人の可能性もあるが狭い村社会では考えにくい(もしそうだとすれば、二度三度と事件が起きても不思議ではない)。犯人は「村人の中にいる」と思われた。もし「1」の女性達全員に恨みがあるとすると犯人は「男性」ということになるが(犯人が女性だと、自分も死ぬかも知れないので)、果たして男に「女性達全員を殺してやる」とまでの怨念が生じることなど、日常的には考えにくい。男は個人的に恨むことはありうるが、全員となると「異常人格」でもない限りあり得ないと考えたのだ。だが村人の男性が他の女性達と重大なトラブルになったという報告はないようである。結局は「2の隠蔽」だと警察は断定した。奥西が不倫関係を精算しようと思い、親睦会に紛れて二人共毒殺した、というのが警察の見立てである。だが不倫を精算するくらいで「5人を殺し15人も病院送りにしよう」とするだろうか。おまけに不倫相手の女までも殺すなんて、どうしても納得行く理由ではない(私なら不倫の相手は殺さないけどね)。そこで一つは目標の相手を確実に殺せるか、という問題。もう一つは「女房だけ殺せなかったのか」という問題。それに殺すにしても「それには相当の葛藤があって、争いが長期間に、しかも激しい諍いが起こってどうにも解決がつかず」といった状況がなければ不自然である。不倫関係の精算というのは「都合の良い、取ってつけた動機」と思われてならない。奥西が疑われてから「後付けで浮上した動機」だと私は思う。しかし裁判官は、この動機の説明に対して疑問を投げかけてはいないようだ。裁判官は意外と世間知らずのお坊ちゃんが、わんさか大勢いるのである。自白があれば、動機などは何だって良かったのではないか。
2 殺害の凶器
凶器は毒物ニッカリンTという農薬を入れたぶどう酒である。ニッカリンTは赤い色をしている。ぶどう酒に入れると赤くなるそうだ。だがぶどう酒が「赤ワインか白ワインか」ドキュメンタリーは言ってないので、もし赤ワインだった場合は色は判明しない。これは疑問として残る。だがニッカリンTを混入した場合は「不純物が入る」とされ、問題のぶどう酒からは「その不純物は発見されていない」のだ。弁護団はインターネットで手を尽くしてやっと封を切っていないニッカリンTをダンボール箱で入手した。その結果、犯行の凶器は「奥西の自白と違っている」と判明した。ニッカリンTでないとしたら何なのか、またその農薬を奥西は入手出来たのか?、肝心の毒物は「特定されてない」。奥西の犯行を決定づける証拠なのに、何という毒物なのか不明で「ただ農薬という」に過ぎないのだ。これでは奥西を犯人とするには不十分である。だが、再審請求は名古屋高裁の壁に阻まれる。「色々あるけど、有罪は変わらない」というのが名古屋高裁の門野裁判長の出した結論である。「疑わしきは罰せず」という言葉は、この人には無縁のようだ。
2 ぶどう酒に毒を入れるタイミング
ぶどう酒に巻かれている封緘紙を破らずに王冠を開けることは不可能と説明されているので、犯人が毒を入れるタイミングは集会場所の公民館しかないと警察は結論した。破かれた封緘紙も公民館から発見されている。だが弁護団の必死の努力で、都内の町工場の再製作による「再現」実験の結果、封緘紙を破らずに開けて毒を入れることは「可能」と証明された。であれば毒を入れた場所は、公民館とは限らないことになる。ぶどう酒は2時5分に農協から林酒店に納入、村人の石原さんが林酒店からぶどう酒を受け取って会長宅に届けたのは2時15分と証言した。会長宅から公民館へ奥西がぶどう酒を運んだのが5時20分だから「3時間近く会長宅の玄関に置いてあった」ことになる。そうなると誰でも毒を入れられることになってしまう。最初石原は会長宅にぶどう酒を届けた後に、5時頃に会長宅から6km離れた仕出屋へ自転車で行き、弁当を貰って公民館に届けたと言う。だが奥西が自白したら「あれは記憶違いで、酒屋から酒を受け取ったのは5時頃の間違いだ」と、証言を翻す。そうなると毒を入れられるのは「公民館」でしかなくなる理屈だ。ところが酒屋に5時となると仕出し屋に5時に行くことは不可能である(6kmもあるから往復12kmだ)。すると仕出し屋の女主人が「弁当を渡したのは6時頃かもしれない」と、これまた証言を変えるのだ。余りにも変である。仕出屋の言い訳では時計が狂っていたとしているが、だが仕出し屋のような職業では受け渡し時間を守らねばならないため、時計が狂ったままでは商売出来ないので「すぐに直す」筈である。あの時は時計が狂っていたのかも知れない、などと曖昧な証言では納得できないであろう。仕出し屋や石原の証言変更は、奥西犯行を都合よく裏付けるために警察の意向でなされたことは明らかである。テレビ局による石原の後日のインタビューでは「逃げるようにカメラを振り払いながら」証言変更を「覚えていない」と言う石原の姿がはっきり映し出されている。
3 王冠の歯型の鑑定
ぶどう酒の王冠は「歯で開けた」と奥西が供述している。警察が鑑定依頼をした「大阪大学の教授、松倉豊治氏」が、歯型が奥西のものと一致したと証言。だが弁護団の努力の結果、「鑑定の写真資料が倍率を変えて奥西と一致させた別物」だと言うことを3D解析技術で証明した。王冠の歯型は奥西のものではなかったのだ。王冠は歯で開けたのではなく、平らな器具で開けたものと結論付けられた。唯一の物的証拠が崩れたと言うことで弁護団は勇み立ったが、「証拠能力は減殺されたけれど奥西の有罪を覆すほどではない」と「またしても裁判所の壁」に無罪決定は阻まれたのだ。鑑定した松倉豊治氏へのインタビューでは、「鑑定については、私は無言と貫くこと」にしてると言って逃げている。こうなると「こんな信念のない人間に鑑定を依頼していいのか」と言う疑問が湧いてくる。鑑定がデタラメだったり捏造されたりと言うのは良くある話である。テレビドラマの世界ではないのだ。結果として、物的証拠は無くなった。
3 ぶどう酒を運んだ石原房子の証言
5時過ぎに奥西が会長宅からぶどう酒を公民館へ運んだ時、坂峯富子と一緒に歩いていた。彼女は公民館に着いたら「ふきんがなかったので、会長宅へ取りに行った」と供述し、この間「10分間」ほど奥西が「独りで公民館に居た」と証言したのである。だが当初の警察による聞き取りでは、会長宅から公民館に行く途中、「石原房子と合流して3人で公民館で親睦会の準備をした」という。そして「ふきんを取りに行って帰ってきたら、奥西勝と石原房子が公民館の囲炉裏に座って話していた」と言っていた。これは捜査員が聞き込みをして上司に報告した事実である。奥西は「独りではなかった」のだ。だが最高裁は「又聞き証言は証拠として採用しない」とし、再審を却下した。ここでも「真実を追求する裁判という虚妄が」明らかになっている。大体が日本の刑事訴訟法では「集めた証拠のうち法廷に提出するかどうかは検事の一存で決まってくる」と言う。証拠を集めたり関係者から聞き取りしたり容疑者を尋問したりと、警察は権力を使って操作する。だが集めた証拠がどんなものなのかを弁護士は知ることができないのだ。これでは十分な弁護は期待出来ないではないか。聞くところによれば、アメリカでは「全部開示する」ことになっていると言う。当然である。その当然なことが日本では許されていないのだ。
4 ビンは発見できず
近くの川に捨てたという奥西の供述で徹底的に捜索したが、結局瓶のかけらすら発見できなかった。自白は強要されて創作されたもので、被害者にお詫びする「奥西の謝罪映像」が流れているが、後のビデオでは「警察に、俺が教えてやるから」と言われて「半時間ほど練習した」と語っている。なぜやってもいない事を奥西は自白したのか、ドキュメンタリーは「自白を強要されたが、冤罪が証明されて無罪を勝ち取った他の死刑囚」をインタビューしている。自白の強要は「白を黒だと自白させる」ことだって出来るのだそうだ。
総合的に見て「奥西がやった」と確信するには、「動機も方法も物証も不十分」なのである。自白だけが決め手と言っていい。だから一審では「無罪」となっているのである。津市の新任裁判官高橋爽一郎は生涯にわたって「ニッカリンTをぶどう酒に入れる実験」をしなかったのが残念だと、くやみ続けていたという。だが一審の無罪判決を覆して名古屋高裁で異例の死刑判決が下った。それから半世紀、まだ奥西の冤罪は晴れないままである。当事者はほとんどが高齢のために亡くなってしまった。司法はこの「名張毒ぶどう酒事件を裁くこと」から逃げていた、そう言われても仕方ないであろう。
今は少しは改善されていると思うのだが、私なりに日本の裁判というものの印象を書いて見たい。それは自白偏重という民族のトラウマである。自白とは「言葉」であり、本当のことを言っているか嘘なのかは「わからない」ものだ。それを「裁判官が勝手に判断する」のである。そこには意識してかあるいは無意識のうちに、色々なしがらみが絡み合って判断が捻じ曲げられる。私はCSで「エレメンタリー ホームズ&ワトソン」というドラマを気に入って毎回見ているが、自白が決め手となるような「観客の感情に訴える日本のお涙頂戴的なドラマ」とは論理も筋立ても全然違っていて、一つ一つの物的証拠を「演繹的に積み上げて」犯人を追い詰めていくスリリングなドラマである。日本はどうしたわけだか「自白偏重が染み付いた国」なのではないかと思うときがある。もう自白を証拠の一つとして扱うのは、止めたらどうなのか。容疑者が自白するというのは「罪を逃れられないと悟ったから」である。とすれば「自白する前に、罪は確定していなければならない」はずである。つまり自白とは、罪が確定した「後で」犯人が心情を吐露するものである。自白は心証を左右することはあっても、罪の立証には「必要ない」と言えるのだ。結局裁判においては、自白はあってもなくても関係ない。むしろ判断を誤らせる「雑音」であると私は言いたい。私の弟が裁判官をやっているが、彼に聞いたところ「自白は有罪決定の理由にはならない」と言っていた。もし現在の警察が健全な捜査で犯人を見つけることができないならば、未解決のまま迷宮入りになってもしょうがない。世田谷一家殺人事件はまだ未解決である。だがあれが鳥取の片田舎で起きていたら、きっと「犯人が特定され自白が強要されて、死刑が確定していた」のではないだろうか。冤罪恐るべし。
すべて「無知・思い込み・不必要な雑音・しがらみ・欲・権力」が、物事を間違った方向へ捻じ曲げてしまう。正しい判断だけを、余計な利益計算なしに即物的に実行するということ。それを出来ない人が、世の中に余りにも多いのだ。再審開始後に「やっぱり死刑」と判決した裁判官は、その後に東京高裁裁判長へと栄転していると言う。森友学園でのらりくらりと答弁を誤魔化した佐川氏が「国税庁長官」に栄転したことと余りにも似ているではないか。日本という国の根源的な闇に、政府も国民もどっぷりと浸かっている、そう改めて身につまされたドキュメンタリーであった。曰く、国家を正義と信じる者は、その国家によって使い捨てられる。
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